命燃え尽きても尚……  〜仰木彬監督、最後のマジック〜

山犬
 
  1.オリックスと近鉄の統合元年の最後に

 自らの命を犠牲にしてまで、働くことができるか。
 僕なら答えはノーだ。おそらく大部分の大人が働くのは生計を立てるためで、死を目の前にして肉体に鞭打つようなことはあえてしようとしないだろう。
 それがまして、生計を立てるためのお金をもはや稼ぐ必要がなく、そして、一般で言う定年を遥かに過ぎた者であったとしたら……。

 だが、そんな僕の想像を遥かに超える仕事人が日本のプロ野球界にはいたのだ。仰木彬である。
 僕は、かつて美空ひばりが病に冒されてもはや立っていることもままならない容態でありながら、病院から駆けつけ、ステージを完璧にこなし切ったという話に強く心を打たれたことがある。
 仰木彬の2005年の闘いは、多くの人々の感動を呼び起こさずにはいられない壮絶さを伴っていた。

 2005年12月15日、テレビを見ていた僕に、近鉄、オリックスで指揮を執ってきた名将仰木彬ががんのため亡くなったというニュースが飛び込んできた。だが、にわかには信じられなかった。
 つい2ヶ月前にオリックスの監督を退任して、シニア・アドバイザーに就任したばかりではないか。しかも、シーズン中は、ファンにいつも笑顔を絶やさず、試合中は大胆な抗議もするほど情熱的だったではないか。いくらニュースでの訃報だからと言っても、しばらく前に「旧日本兵発見」という世紀の誤報をまことしやかに流された側としては、疑い深くなるのは当然である。
 そんな僕の願いも虚しく、仰木彬は、多大なる功績を残した人生に幕を閉じていた。

 仰木彬が監督復帰を決断したのは、2004年のシーズンオフだった。
 2004年のシーズンは、日本球界を未曾有の激震が襲った。6月に近鉄がオリックスとの統合を発表して以降、球界再編へと進みかけたのだ。パリーグが5球団になると運営が難しくなるという言い分がまかり通り、危うくセリーグに吸収されての1リーグ制が実現しかけた。
 だが、そんなプロ野球縮小の危機に選手会とファンの結束が、世論はおろか球界までも大きく動かした。
 その結果、12球団制が崩されることなく残り、楽天の新規参入という新たな風穴を開けた。一連の流れの中で、近鉄との統合を推し進めたオリックスは、悪者という位置付けになろうとしていた。
 ライバル球団の近鉄を実質上吸収するような形で統合してしまおうとしたことで、球界は大きな荒波にもまれてしまったのだ。
 楽天は、初年度のシーズンということで負け続けてもファンは温かく見守ってもらえるが、オリックスの場合はそうはいかない。旧近鉄と旧オリックスの主力選手を優先的に保有したため、楽天より低い成績に終わることは許されないのだ。とはいえ、2球団の主力選手を集めたからといって、お世辞にも戦力が整っているとは言いがたい。近鉄はその年5位、オリックスは最下位なのである。
 そもそも、別々の球団にいた選手達が一致団結させて、一つのチームとして機能させることすら容易ではない。そんな球団の監督を務め上げるのは誰もが避けたいところだろう。
 オリックスは、そんな極めて追い込まれた環境で仰木彬を監督に据えようとする。いや、そもそも仰木以外の選択肢はとりようがなかったのかもしれない。仰木彬は、このとき既に69歳だった。


 2.いぶし銀からの転機

 仰木彬は、1954年に東筑高校で甲子園に出場し、卒業後、西鉄に入団している。当時は、魔術師と呼ばれた名将三原脩が監督を務めていた。三原は、投手として入団してきた仰木をすぐに野手に転向させて二塁手として101試合に起用する。
 仰木の野手転向は、見事に当たった。仰木は、ルーキーながら西鉄初のリーグ優勝に大きく貢献し、日本シリーズでも打率.313を記録する活躍を見せる。
 翌1955年に15本塁打、22盗塁という活躍を見せ、ゲーム最多安打6というパリーグ記録も作った仰木は、名二塁手として西鉄ライオンズの黄金時代を築く。5度のリーグ優勝、3度の日本一に貢献し、1960年にはベストナインにも選出されている。
 三原脩監督に加えて稲尾和久、中西太、大下弘、豊田泰光という強烈な個性が揃った自由奔放な野武士軍団の中で、仰木の卓越した野球観は作られ、磨かれていった。
 だが、仰木の現役時代に残した通算の打撃成績は、特筆すべきものではない。打率.229、70本塁打、326打点、116盗塁という超一流とは言いがたい結果が残る。
 大選手として記録に残るのは、稲尾や中西という数々のタイトルを獲得したチームメイトだった。
 
 そんな仰木は、1967年に現役を引退後、すぐに西鉄のコーチとなる。そして、1970年には近鉄の監督だった恩師三原脩に招かれて近鉄のコーチに就任する。近鉄では三原脩監督の退任後も、ずっとコーチを続け、信じがたいことに18年間に渡って務め上げる。
 毎年毎年、引退した選手がコーチになったり、新しいコーチが入ってきたりする中で、20年間1度も途切れることなくコーチを続けられたのは、仰木の指導手腕と人望が並外れて優れていたことの証明でもある。
 それでも、仰木彬は、現役時代からコーチ時代にかけての34年間、常にいぶし銀の存在であり続けていた。脚光を浴びるのは、エースや主砲、そして監督というチームの中心になる人々だったからである。
 仰木彬の大きな転機は、1988年だった。近鉄の監督として指揮を執り始めてからである。
 1987年の近鉄は、17もの借金を背負って最下位だった。1980年に西本幸雄監督の下でリーグ優勝を果たしてからわずか7年でお荷物に戻ってしまったチームの建て直しを近鉄は、仰木に託したのだ。

 プロ野球の監督は、選手よりもハードな仕事だという。すべての選手の能力、適性、好不調を把握して見極めなければならないし、勝って当たり前と言われ、負けたら一切の責任を負わされる。
 選手のすべてのプレーに責任を持たなければならないという意味で、監督ほど重圧のかかる仕事はないだろう。
 それが分かっていても、プロ野球の監督は、誰もが一度はやってみたい仕事だという。
 苦労の末、55歳にしてようやく監督に登りつめた仰木は、監督として表舞台に出てくるや、日本中を熱狂の渦に巻き込んでいく。


 3.伝説の10.19、伝説の暴言、そして伝説のトルネード

 仰木の監督としての功績は、記録だけでは語れないものが多い。もちろん、記録においても超一流の成績を残したことは間違いないのだが、記録だけという面から見ればV9を達成した川上哲治や西武で8度のリーグ優勝を成し遂げた森祗晶らには及ばない。
 だが、世間で仰木が語られる度合や人気は、彼らをしのぐほどである。
 その理由は何なのか。
 野茂英雄、吉井理人、イチロー、長谷川滋利、田口壮といった大リーグで活躍する名選手の能力を引き出したからなのか。
 それならば、川上哲治だって王貞治や長嶋茂雄、堀内恒夫らの名選手を、森祗晶だって工藤公康や秋山幸二、清原和博ら名選手の能力を引き出したではないか。
 だとしたら仰木には、彼らとは明らかに異なる何かがあるはずなのだ。
 どれだけ語っても余りある数々の伝説にそのヒントは隠されているのではないか。

 仰木が監督としてその名をとどろかせたのが「伝説の10.19」である。前年、最下位だった近鉄を立て直すため、1軍生活2年目の山崎慎太郎をローテに組み込み、これといって実績のなかった吉井理人を守護神にするというあまりにも思い切った起用を打ち出したのである。そして、投手力を飛躍的に向上させて近鉄を優勝争いに加わるまでにさせた仰木は、最後まで手を緩めず、ついに10月19日にダブルヘッダーで行われるの最終ロッテ2連戦で連勝すればリーグ優勝というところにまでこぎつけたのである。
 そして、1戦目に勝った近鉄は、2戦目で途中までリードしながら終盤に追いつかれて延長10回時間切れ引分によってリーグ優勝を逃すというドラマでもありえないような結末を迎える。
 この10.19によってセリーグばかりに目を向けていたプロ野球ファンをパリーグに向けさせるという実績を残した仰木は、翌1989年にさらなる奇跡を呼び起こす。
 優勝するためには2連勝が必要な西武とのダブルヘッダーでブライアントの4打数連続本塁打によって、劇的に2連勝してみせるのだ。しかも、そのブライアントは、1988年のシーズン途中まで中日の2軍でくすぶっていた外国人選手で、パンチ力はあるが、三振の多さが極端に目立つ選手だった。仰木は、ブライアントの長所を生かすため、三振の多さには目をつぶってパンチ力に賭ける。
 その結果、後半74試合のみの出場で91三振を喫しながらも34本塁打を放って近鉄をリーグ優勝に導いてしまった。近鉄は、わずか2年で一気に魅力的なチームへ変貌を遂げたのだ。選手の個性を最大限に尊重し、短所を無視して長所だけを伸ばすという指導方針は、それまでのチーム作りの考え方を根本から覆したと言っても過言ではない。8点差を逆転する豪快な勝ちっぷりや2年越しでのダブルヘッダーでの雪辱など、僕をますますプロ野球にのめり込ませるようになったのはこの2年だった。

 1989年のパリーグを制した近鉄は、日本シリーズでも大きな伝説を作る。いとも簡単に巨人に3連勝し、第3戦で勝利投手になった加藤哲郎投手がヒーローインタビューで「巨人はロッテよりも弱いですよ」と暴言を吐いてしまったのだ。それは、自由奔放な個性派集団のはまった一つの落とし穴だったのかもしれない。
 この発言を聞いた巨人の主力選手たちは激怒し、近鉄は、3連勝後に4連敗して日本一を逃すという痛すぎるしっぺ返しを食らうのである。そのおかげで、この日本シリーズは、プロ野球史上、最も記憶に残るシリーズとさえ言われることがある。

 そして、1990年には上半身をセンター方向に大きくひねって投げるトルネード投法の野茂英雄が近鉄に入団してくる。仰木は、コントロールが定まらないという大きな欠点を持つ野茂のトルネード投法を一切いじらず、開幕当初は負けが込んでも「そのうち勝ち出すやろ」と信じきって先発で使い続けた。
 その結果、野茂は、トルネード投法だからこそ生み出せる並外れた球威と落差の大きいフォークボールでパリーグの打者を牛耳り、最多勝、最優秀防御率、最多奪三振など投手部門のタイトルを独占したのである。
 仰木は、その後、1992年に赤堀元之や石井浩郎を世に送り出したところで近鉄監督を勇退するが、仰木の株は上がる一方だった。


 4.イチロー、そして、がんばろうKOBE

 1994年から仰木がオリックス監督になることを知ったときの僕の驚きは、半端なものではなかった。コーチとして近鉄で18年間、続いて監督を5年間と23年にわたって近鉄と歴史を共にしてきたのだ。
 まさか仇敵とも言えるオリックスの監督になるなんてことは想像すらしていなかった。
 だが、仰木は、そんな小さな人物ではなかったのだ。もちろん所属する球団を愛してはいただろうが、それ以上に仰木はプロ野球を愛し、プロ野球に携わる人々を愛していた。
 その意味で、仰木は、天性の監督だったと言えるだろう。多くの球団では、偉大な実績を残した生え抜きの名選手が名誉職として監督になることが多い。
「名選手、必ずしも名監督ならず」
 という格言は、その状況を皮肉ったものであるが、選手としての資質と監督としての資質は、本質的に大きく異なるはずだ。選手であれば、自らのことだけを考えていればいいが、監督となれば、自らのことじゃなく、全選手、全コーチの実力や考えを把握していなければならないのだ。指導力と柔軟な発想が求められるが故に、監督は名選手であっても務まるとは限らないわけである。

 仰木の指導力と柔軟性がどこから生まれてきたかと言えば、その原点は、やはり三原脩ということになるだろう。
 三原脩は、最初巨人の監督をやって巨人を戦後初の優勝に導いて以降、巨人から追い出されるように西鉄に移り、西鉄の監督として三原が就任する前は5位だったチームを4度優勝させて黄金時代を築く。1958年の日本シリーズで巨人に3連敗してから稲尾和久の4連投で4連勝して日本一に輝いた采配などは未だに伝説となっている。
 それだけでも名監督として充分な実績を作ったのだが、三原は、さらに1960年、大洋の監督に就任して、前年最下位だったチームをリーグ優勝に導き、さらに日本シリーズでは圧倒的不利の予想を覆して4戦連続1点差で4連勝するという離れ業でファンを魅了する。
 僕は、三原の采配を実際に見たことはないが、さまざまな逸話を総合すると、適材適所に選手を配し、最も調子が良い選手を最大限に活用し、さらに相性や試合の流れを的確に読んで勝ちに行くというものだった。だから代走、代打も駆使したし、乗りに乗ってる選手には自主性に任せた。その結果として生まれた3連敗後の4連勝や1点差で4連勝、最下位から優勝という奇跡は、世間の人々には魔術と映ったのだ。

 三原が鳴り物入りで入ってきた投手の仰木をすぐに二塁手に転向させたのも、世間から見れば魔術となるかもしれない。そして、仕事だけじゃなく遊びも超一流という自由奔放な野武士軍団を一つにまとめあげていたところに三原の優れた魔術が垣間見える。
 三原の魔術を受け継いだのが、仰木だったことを最もよく示すのが、イチローの登場だろう。オリックスの監督就任後、仰木は、いち早く鈴木一朗の並外れた素質を見抜いた。
 そこで、それまで2軍でくすぶっていた鈴木一朗という平凡な名前の選手に「イチロー」という登録名を付けて売り出そうとしたのだ。そのとき、パンチパーマとタレント性の高さで有名になっていた佐藤和弘も「パンチ」という登録名でイチローと同時に売り出したが、最初は「パンチ」の方が話題をさらっていたと言ってもいい。
 だが、仰木の登録名変更の意図がイチローを中心としたチーム作りの合図であったことに人々が気づくまでに、そう時間はかからなかった。
 開幕からレギュラーに定着したイチローは、すさまじいペースで安打を積み重ね始めたからである。イチローは、連続試合出塁の日本記録を塗り替え、130試合で210安打を放って圧倒的な日本新記録を樹立する。
 それは、仰木がイチローの生み出した独特な振り子打法を一切いじらず、観客を魅了するのは四球じゃなくヒットだというイチローの哲学をそのまま尊重した結果だった。
 この年、僕は、初めてオリックスの試合を野球場へ観戦に出かけた。それまでは、阪急よりこじんまりとしてしまったオリックスの地味さのせいで、わざわざ野球場まで行こうとは思わなかったのだ。それがイチローの出現で状況が一変した。連続試合出場を伸ばし続けるイチローをこの目で見てみたくなったのである。

 イチロー中心のチーム作りが見事に成功したオリックスは、前年までは何とか3位に滑り込むのが精一杯だったチーム状況ががらりと変わる。1995年にはリーグ優勝、1996年には巨人を破って日本一に輝くのだ。
 特に阪神・淡路大震災によって壊滅的な被害を受けた本拠地神戸から、市民に、そして関西に再び光を取り戻すためにリーグ優勝へひた走った1995年のペナントレースは、まさに鬼気迫るものがあった。「がんばろうKOBE」のスローガンの下、イチロー、小川博文、田口壮、ニールらが打線を引っ張り、長谷川滋利、野田浩司、星野伸之、平井正史ら投手陣が踏ん張り、投打ともにパリーグ一の成績を残したオリックスは2位に12ゲーム差をつける圧倒的な強さでパリーグを制したのである。
 そして、仰木は、勝負師として勝ちにこだわるだけでなく、常にファンあってのプロ野球ということを意識していた。1996年のオールスターでは巨人の松井秀喜の打席で投手イチローをコールし、日本中を沸かせた。このときは、セリーグの野村克也監督が代打高津臣吾をコールし返したため、対戦は幻に終わったが、それもまた物議を醸して伝説となった。他にも覚えにくい外国人選手にD・Jという登録名を付けて売り出したり、嘉勢敏弘を野手と投手の二刀流として売り出したりした。また1997年のオールスターでは1番打者落合博満、4番打者イチローという奇想天外なオーダーで試合に臨んだ。仰木は、常にファンを喜ばせる秘策を練っていたのである。

 その一方で、仰木の指導した野茂英雄が1995年に大リーグ挑戦したのを皮切りに長谷川滋利、吉井理人、イチロー、田口壮らが次々と海を渡り、大リーグでも実績を残していく。彼らのすべてが仰木を恩師と慕っていたことで、仰木の名声は益々高まりを見せた。彼らの自由とより高い野球を求める探究心は、仰木の個性尊重と門限さえ決めない自由放任型指導による好影響と言っていい。
 だが、その反面で大リーグ流出とFA制度による流出により、仰木のオリックスは、優勝から遠ざかることになる。それでも、一切弱音を漏らすことなく、2001年までオリックスの監督を務め上げ、田口を大リーグへ送り出して一区切りをつけた仰木は、監督を勇退した。
 ファンからも、選手からも慕われる名将仰木が再び野球界に戻ってくることはもうないかと思われた。

 5.最後の仰木マジック

 2005年、まさかとも言えるオリックス監督へ4年ぶりに復帰した仰木を取り巻く環境は大きく変わっていた。オリックスは、3年連続最下位という球団創設以来の危機を迎え、最下位と5位が統合したチームを指揮するという未知の世界だった。弱体化してチームという意味ではかつて近鉄やオリックスの監督を引き受けたときと変わりはなかったが、統合したばかり球団の指揮なんて、生涯に1回経験できるかどうかという非常事態である。
 それでも、仰木は、日替わりで相手チームを幻惑する先発オーダー、トーナメントのように1戦1戦を全力で戦い抜く総力戦によって、オリックスは、西武と激しいプレーオフ進出争いを繰り広げる。
 結局、オリックスは、前年日本一の西武に振り切られてプレーオフ進出を逃すが、オリックスがプレーオフ争いにオリックスが絡んでくると予測した者はほとんどいなかっただけに、その功績は大きい。

 だが、仰木の体調は、もはや取り返しのつかないところまで来ていた。仰木は、2003年に肺がんの再発が発覚し、大きな手術を行っていた。極めてハードな仕事である監督をやれる状態でなかったのは確かだ。
 それを承知で、仰木は、統合したばかりのオリックスの監督を引き受けたのだ。
「グラウンドで死ねたら本望」
「野球界への最後のご奉公だ」
 仰木は、監督就任以降、そんな言葉を全国に向けて発し続けた。どうせ命が長くないなら、野球界に少しでも貢献することに残りの人生を捧げたい。仰木の生き様は、僕らの想像を遥かに超えていた。野球界の発展のため、プロ野球選手の育成のため、ファンを喜ばすためなら命さえ惜しまない。その行き届いた愛情の強さが誰よりも卓越しているのだ。人々を魅了し続けた仰木マジックの原動力はそこにある。

 2005年のシーズン中、テレビを通じて見る仰木に体調面の不安は、みじんも感じられなかった。勝負に同情を持ち込まれることを仰木は、誰よりも嫌っていたのかもしれない。
 グラウンドで選手を見て回り、パウエル投手をJPという登録名にして看板選手としたり、一旦は自由契約になった吉井理人投手を再入団させて復活させたり、と随所に「らしさ」を見せる。投手をやりくりしながら鉄壁のリリーフ陣も作り上げた。
 8月頃までは僕も、3位をひた走るオリックスのプレーオフ進出を信じて疑わなかった。しかし、仰木の体調は、もはや指揮を執ることすらままならぬほど、悪化していたのだという。
 西武に競り負けたオリックスの失速は、仰木の内なる闘いが既に限界を超えていたことを暗に示していたのかもしれない。
 仰木は、オリックスを最下位から4位に引き上げはしたが、念願のAクラス入り、すなわちプレーオフ進出の前に力尽きた。
 だが、仰木は、早くも次の手を打っていた。関西の英雄清原和博と中村紀洋を同時に獲得に動き、いずれも獲得成功への布石を残していたのだ。ルーキー投手の光原逸裕をエース候補として育てる構想も既に練っていたという。
 彼らは、仰木の想いを胸に、どれだけ活躍してくれるのだろうか。三原脩は、監督生活の最後にヤクルトを率いて最下位だったチームを4位にしたがAクラスにはできぬまま退任した。その翌年、ヤクルトは、三原を引き継いだ荒川博監督の下で13年ぶりのAクラスを手にする。
 オリックスも、4位で終わった無念を晴らすため、中村勝広監督の下で一丸となれば、2006年に最後の仰木マジックが完結することになる。




(2006年1月作成)

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