充実した落合監督8年間の記録と記憶(9)
〜2008年〜


犬山 翔太
 
 25.流出した中軸打者とセットアッパー

 前年に日本一になったとはいえ、中日は、圧倒的な戦力で勝つチームではなかった。そのうえ、主力外野手の福留孝介が大リーグのカブスへ移籍することになった。幸いなことに西武の外野手和田一浩がFA宣言で中日移籍を希望したことで、福留が抜けた穴を和田が埋める、という形は整った。しかし、今度は逆に和田の人的補償として不動のセットアッパー岡本真也が西武に移籍することになったのである。

 現代野球にとってセットアッパーは、重要である。もちろんクローザーが最も重要なのは変わりなかったが、それに匹敵するほど8回を投げるセットアッパーの存在は大きくなっている。
 岡本は、落合監督が就任後、セットアッパーとしての素質が開花し、2004年には最優秀中継ぎ投手のタイトルを獲得。2007年にも5勝2敗38HP、防御率2.89で中日の日本一に大きく貢献した。岩瀬の前の8回を主に投げて、剛速球と鋭いスライダーを武器に奪三振が多く、中日の勝ちパターンと言えば、平井・岡本・岩瀬のリレーだった。

 にもかかわらず、人的補償をするときのプロテクト枠28人に岡本が入っていなかったのは、相手チームの西武ですら驚きを隠せなかった。このとき、不動のセットアッパー岡本がプロテクト枠を外れた理由は一切明かされず、いまだに明かされていない。
 様々な憶測が飛び交い、年齢による衰え、安定感に欠けること、世代交代、球団との確執、和田と釣り合う選手の西武への譲渡、といった説が流れた。
 岡本のプロテクト洩れがたった1つの要因によるとは考えにくく、おそらくは複数の要因が重なった結果そうなってしまったのだろう。2004年の段階であればプロテクト洩れすることはなかったであろうし、和田が入団しなければ放出されることもなかったはずである。

 ただ、この当時、西武は、中継ぎ投手が弱体化して苦しんでいた。そのため、落合は、和田をもらった代わりとして中継ぎエースの岡本を提供した、という考え方が最も納得できる。2007年終了当時、岡本は、中日にとって、どうしても抜けられては困る存在ではなかった。また、今後のさらなる成長が見込める存在でもなかった。ゆえに、どうしても抜けてはならない選手と若手の有望選手を中心にプロテクトした結果、岡本の順位が28位を下回ってしまったのである。

 岡本は、2008年に西武で47試合に登板して16HPを上げる活躍を見せたものの、翌年からは不振に陥り、韓国プロ野球を経て2011年に楽天で引退する。
 一方、中日は、岡本が抜けた穴に2008年は苦しむ。8回を投げるセットアッパーを固定できなかったことがチームが優勝できなかった要因の1つともなった。とはいえ、岡本が抜けたことによって浅尾拓也、小林正人、高橋聡文、鈴木義広らが成長して2009年後半になって8回のセットアッパーに浅尾が固定できるようになる。
 結果的に見れば、岡本の放出は、チームのターニングポイントであり、2009年後半までセットアッパーを固定できなかったことで、中日は、2008年を犠牲にした形となった。
 しかし、それが後の球団2連覇につながるのである。


 26.事前の北京五輪対策成功、しかし

 落合にとって、2008年は、2人の中心選手が抜けた他に、もう1つの懸念があった。それは、2008年8月にある北京五輪である。ペナントレースの佳境に入る最も踏ん張りどころで約1か月間、主力選手が抜けることになるだけに、この年のプロ野球最大の懸念でもあった。

 2月2日、落合は、キャンプを視察に訪れた根来泰周コミッショナー代行に北京五輪対策の救済措置を提案する。それは、北京五輪日本代表に3人以上選出された球団には外国人選手枠を1人増やして5人にしてほしい、というものだった。
 中日は、2007年オフに行われたアジア予選に5人の選手を派遣していた。そのため、中日が五輪本選の日本代表に3人以上を派遣するのは確実だった。
 落合は、既に五輪で荒木・井端が抜けた場合を想定して内野手のデラロサを獲得、川上・岩瀬が抜けることを想定して剛腕投手ネルソンを安価で獲得していた。

 キャンプで落合が提案した案は、その後、プロ野球実行委員会で承認され、6月にはNPBと選手会で合意に達した。
 これにより、中日は、北京五輪期間中に5人の外国人選手を1軍に置くことができるようになる。
 実際、五輪本選は、中日から4人が日本代表に選出となった。エース川上、守護神岩瀬、走攻守の要荒木、内外野双方をこなせる主力打者森野の4人である。北京五輪日本代表監督が元中日監督の星野仙一であったため、星野は、古巣の選手たちを重用した。
 中日の選手たちは、前年に日本シリーズで日本一、アジアシリーズでアジア一、さらに五輪アジア予選に出場と厳しい戦いが続いた。そのため、シーズンオフがほとんどなく、中日の選手たちは、調子がいまいちであった。そんな選手たちを星野が酷使したことによって、北京五輪では「金メダルしかいらない」と豪語しながら、銅メダルすら逃してしまう、という皮肉な結果となった。

 その五輪中、中日は、5人の外国人選手を1軍に置くことができた。しかし、中日に大きな誤算だったのは、この年、チェンが先発・中継ぎとして台頭して好成績を残し、北京五輪の台湾代表に選出されてしまったことである。
 そのため、外国人選手枠5人の1人として想定していたチェンが抜けて、実質4人と同じ状況になった。主力選手が5人抜けたうえ、外国人選手枠5人があまり意味をなさなくなってしまったのである。

 この年のペナントレースは、北京五輪が勝敗を分けたと言っても過言ではない。
 シーズン序盤から首位を独走していた阪神は、北京五輪に守護神藤川、攻守の要矢野、主軸打者新井の3人が選出された。
 一方、巨人は、守護神上原と攻守の要阿部の2人が選出された。

 3強と言われる巨人、阪神、中日において、北京五輪に選出された人数がそのまま順位として返ってきた。それほど、北京五輪は、ペナントレースに大きな影響を及ぼしたのである。


 27.メイクレジェンドの陰で

 この年のペナントレースは、のちにメイクレジェンドと呼ばれるほど劇的な結末を迎えることになる。
 開幕当初から主導権を握ったのは、阪神だった。広島から主砲新井、オリックスから内外野をこなせる平野を獲得して補強して開幕ダッシュに成功する。
 圧倒的な強さで4月から7月までを駆け抜け、7月22日には優勝マジック46を点灯させたのである。
 一方、中日は、5月半ばまでは阪神を僅差で追いかけたものの、森野の左ふくらはぎ肉離れによる離脱もあって徐々に突き放され、7月19日には14ゲーム差をつけられてしまう。
 それは、巨人も同じだった。7月8日には阪神と13ゲーム差を付けられ、リーグ連覇は風前の灯となってしまったのである。

 それでも、8月に入り、各球団から北京五輪日本代表選手が抜けると、2人しか選出されなかった巨人が一気に独り勝ちの様相を見せ始める。その一方で阪神は失速し、中日は足踏みするという三者三様のチーム状況に分かれた。
 この年の巨人は、ヤクルトから主砲ラミレス、エースのグライシンガーを獲得し、さらに横浜から守護神クルーンを獲得するという信じがたい大型補強によって、チーム力は圧倒的だった。さらに、大量に保有する育成選手の中から成長した山口鉄也が急成長し、選手層が分厚くなっていた。
 そのうえ、北京五輪で2人しか抜けなかった状況も味方し、巨人は8月から圧倒的な強さを発揮する。8月を12勝7敗で加速すると、9月を17勝6敗で一気に首位と0.5ゲーム差まで詰め寄る。そして、10月8日の直接対決で勝利してついに阪神を逆転して首位に立つのである。

 その陰で、中日は、昨年の日本シリーズ、アジアシリーズ、北京五輪予選をフルで戦い抜いた主力選手が疲弊し、さらに8月には北京五輪で主力選手が抜け、調子を崩して帰ってきた。大型補強をせず、必要最小限の選手で戦い抜いてきた中日にとって、この状況は、壊滅的と言う他なかった。
 その結果、主力選手のほとんどが過去最低とも言える成績にあえいだ。チーム打率は、リーグ最低の.253、チーム防御率も3位とはいえ3.53と沈んだ。特に同じようなチーム形態をとる阪神とは対戦成績6勝17敗と屈辱的な惨敗に終わった。再起を図るクライマックスシリーズこそ、阪神に2勝1敗で制したものの、この年からアドバンテージ1勝分がついた巨人には1勝3敗1分で敗れた。

 その結果、残ったのは落合政権唯一となった3位という最低成績である。他の7年間がすべて2位以上であったため、一般的にはまずまずの成績であるにもかかわらず、この年があまりにも不本意な成績であったように映る。
 この年の中日は、岡本が抜けたセットアッパーを除いて、レギュラー選手を完全に固定して戦える体制が整っていた。確かにレギュラー選手は、年齢的にも、心技体においても、充実した選手で固めることができていたのだ。
 落合も、この年の初めに、自らが技術を認める選手が揃ったことで「理想的な戦いができる」と意気込んでいた。
 私も、シーズン当初は完全優勝を信じて疑わなかった。にもかかわらず、結果は、残酷なまでに落合政権最低の成績に沈んだのである。
 そんな結果を生んだ要因を一言で語ることはできない。前年に日本一、アジア一に上り詰めた達成感と疲労感、そして、北京五輪アジア予選と本選での主力離脱がまず浮かぶ。レギュラーが固定されたことによりチーム内競争力が低下が低下したこともある。
 チーム外では、巨人・阪神が大型補強したのに対し、中日は流出の方が多く、選手層に差がついてしまったこともある。

 2006年にシーズンを通した強さでリーグ優勝を果たし、2007年に日本一、アジア一となったことで、チームとしては完成の域に達していた。しかし、それを固定して維持しようとしたとき、思わぬほころびが顔を出して、2008年は、積み上げたものが難なく崩壊してしまったのである。
 2009年、落合は、巨人・阪神という大型補強球団に対抗するため、周囲の想像を超える形で新しいチーム作りに取り組むことになる。





(2012年7月作成)

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