充実した落合監督8年間の記録と記憶(7)
〜2007年前半〜


犬山 翔太
 
 19.育成選手中村紀洋

 2007年は、まず外国人選手の入れ替えから始まった。この年、35歳となり、守備と打撃で衰えが見え始めていたアレックスに変わって、中日は、韓国のスター選手李炳圭を獲得する。中日球団は、以前から韓国人選手の補強に積極的で、過去には宣銅烈、サムソン・リー、李鍾範らを獲得している。その延長線上にある獲得だった。
 中日入団後、落ちる球に滅法弱く、日本野球に適応しきれなかった李の成績を考えると、これが補強だったと言うべきかどうかは迷うが、中日球団が補強したのは、李のみだった。

 しかし、意外なところから新たな補強が生まれる。近鉄・オリックスで活躍したスター選手中村紀洋が自由契約選手となっていたためである。
 中村は、オリックスの主砲として年俸2億円を稼いでいたが、その年の試合中に左手首を故障して不振に陥った。挙句の果てに、シーズンオフにはオリックスから年俸を野球協約の限度40%を超える60%減の8000万円と提示され、契約交渉が決裂したのだ。
 自由契約となった中村の獲得に動く球団はなかった。金髪だった近鉄時代の言動、メッツとの契約決裂、そして、オリックスとの契約決裂といった悪い評判が中村獲得を見送らせたのである。

 落合もまた、中村獲得には慎重だった。なぜなら既に三塁には若手の森野将彦がレギュラーとして成績を伸ばしていたからである。
 この年は、日本ハムの小笠原道大も、FA宣言で他球団移籍を目指しており、「師弟関係にある落合がいる中日へ移籍するのでは」という憶測も流れた。しかし、落合は、三塁には既に森野がいるため、獲得に動かなかったのだ。

 とはいえ、中村の場合は状況が違った。巨人が大金を積んで獲得に動いた小笠原とは異なり、中村は、このままいけば野球浪人が確定する状況だった。そして、キャンプも中盤にさしかかろうとしていた2月12日、落合は、ついに重い腰を上げる。
「才能ある選手から野球を奪ってはいけない」
 それが理由だった。落合は、中村を中日のキャンプにテスト生として参加させ、入団テストを経て育成選手として年俸400万円で契約したのである。

 この決断は、落合が師弟関係にある中村の技術を認めていたからこそである。野球浪人をさせるのはプロ野球界にとって大きな損失だ、という心情が獲得慎重姿勢から獲得強行へと動かせた。
 そして、皮肉にも、その決断こそが相反する2つの結果を生んだ。1つは、中村が日本シリーズMVPになるほどの目覚ましい活躍を見せて、中日に53年ぶりの日本一をもたらしたことである。
 もう1つは、中村と森野を両方レギュラーで起用するために森野を外野に回し、レフト・センター・ライト・サードとめまぐるしく起用しているうちに、2008年5月、森野が左ふくらはぎ肉離れという大きな故障をしてしまい、その後の選手生活に影響してしまったことである。

 落合自身も、あとから振り返って、森野の故障を「大きな代償」と述べているが、あのとき中村獲得に最後まで慎重だったのは、森野に及ぼす影響を懸念していたからだろう。
 結果的に懸念は現実のものとなったが、落合政権唯一の日本一を勝ち取ることもできた。失ったものも大きかったが、得たものも大きかった。
 あの決断が正しかったのか、誤っていたのか。そこには、結果が出た今も、まだ答えはない。ただ、言えるのは、落合が中村と森野という2人の選手に対する強い思いやりが生んだ苦渋の決断だったということだけである。


 20.リーグ優勝を犠牲にして2位

 この年の中日は、前年に増して戦力が上がったため、前評判ではリーグ優勝確実の声は高かった。
 だが、巨人も、日本ハムの看板打者小笠原道大とオリックスの看板打者谷佳知を獲得する大型補強をしていた。JFKを中心に安定した戦いぶりを見せる阪神も侮れなかった。

 大方の予想通り、この3球団が三つ巴の優勝争いとなっていく。中日は、開幕ダッシュで首位に立ったものの、混戦から抜け出せないまま、2位で交流戦に入る。交流戦では一進一退の攻防で12勝11敗と今一つの成績で終える。一方、巨人は交流戦を15勝9敗と貯金を蓄え、波に乗ることに成功する。
 この年の巨人は、新戦力を中心に多くの選手がシーズンを通して好調を維持していた。小笠原と谷がともに素晴らしい活躍を見せ、豊田の代役として抑えに回った上原が完璧な投球で守護神の役割を果たした。

 巨人・中日・阪神の投手力は、防御率を見るとほぼ互角である。差があるのは打撃力で、大型補強に成功した巨人の打撃陣が打率・本塁打数ともに他球団を圧倒している。
 それでも、リーグ優勝した巨人と中日の差は、1.5ゲーム差である。
 この年、仮にリーグ優勝しようと思えばできた。落合は、そう振り返っている。
 なのに、なぜ落合は、リーグ優勝を捨てたのか。
 その理由は、2007年シーズン終盤の投手起用に見ることができる。他球団がリーグ優勝のために、好投手を酷使する中、中日は、余裕のあるローテーションを組み、中継ぎ投手の酷使も避けた。
 なぜなら、この年からセリーグにも、クライマックスシリーズ導入が決まっていたからである。

 落合は、クライマックスシリーズ導入には反対の立場をとっていた。1年間かけて戦うペナントレースこそ、最高の価値があり、あくまで日本シリーズは、リーグ優勝したチーム同士が戦うべきだと考えているからである。
 それでも、クライマックスシリーズ導入が決まった以上、落合は、規則に従わざるをえない。その規則内で最善の手段を考えたとき、落合は、中日が53年間遠ざかっている日本一を勝ち取るために、最悪の場合はリーグ優勝を犠牲にせざるを得なかった。最悪の場合とは、あくまでリーグ優勝を狙いはするが、選手を酷使せず、普段通りの戦いを貫いて、リーグ優勝できなければ、2位からの日本一に賭けるという戦略である。

 当時、リーグ2位であっても、1位とのアドバンテージがまだなかった。そうなると、日本シリーズへ進むためには2位から勢いをつけて勝ち上がった方が有利という見方もできる。
 落合がリーグ優勝をあえて犠牲にしたのは、この年が最初で最後である。この年は、あくまで球団悲願の日本一こそが最大の目的だったからだ。
 そして、2位でペナントレースを終えた後、伝説の快進撃が始まるのである。


 21.先発小笠原の奇襲

 クライマックスシリーズ第1ステージは、ナゴヤドームで2位中日×3位阪神という組み合わせとなった。先に2勝した方が第2ステージへ進むことができる。
 10月13日の第1戦は、中日のエース川上が7回無失点に抑え、打線も7点を奪って7−0で快勝する。翌日の第2戦も、1回裏に中日が5点を奪って早々と試合を決め、先発中田の好投もあって5−3で2連勝を飾り、第2ステージへ進んだ。

 そして、問題の10月18日、中日×巨人の第2ステージ第1戦が行われる。巨人は、予定通りエース内海。中日の先発は、巨人の予想では右の山井だった。常識的には山井の他に考えられるのは、3本柱の1角である朝倉、そして、中4日で川上である。
 いずれにせよ、右の先発と読んだ巨人は、7人の左打者を並べた。
 しかし、そこで中日が先発として送り込んだのは、左投手の小笠原孝だった。小笠原は、故障明けで3か月間白星から遠ざかっていたが、巨人とは相性が良かった。とはいえ、クライマックスシリーズ第1ステージの第2戦で中継ぎとして2回を投げており、この試合に投げるとなると、中3日しか空かない。小笠原が先発に回ると予想する者はいなかった。短期決戦では、最初に中継ぎ起用されれば、その後も中継ぎをする、というのが常識だったからだ。
 しかし、落合と森の考えは違った。まず中継ぎでテストしてみて、調子が良ければ、次の試合に先発で起用しよう、という戦略だったのである。

 完全に読みを外された巨人は、打線が沈黙し、小笠原に5回1失点に抑えられた。中日は、小刻みな継投によって5−2で逃げ切り、翌日の第2戦ではエース川上が満を持して中5日で先発し、7−4で勝利。さらに第3戦は中田が先発して4−2で勝ち、一気に3連勝で日本シリーズ進出を決めたのである。

 クライマックスシリーズ初年度のこの年は、1位に何のアドバンテージもなかった。第1ステージから勝ち上がった球団は、エースが第2ステージ第1戦に登板するなら中4日で投げなければならない、というのが唯一のアドバンテージと言えた。
 ただ、中日は、そこを逆手にとって奇襲の小笠原先発で逆に1位球団を混乱させ、一気にクライマックスシリーズの流れを引き寄せたのである。

 クライマックスシリーズをセリーグにも導入させたのは、パリーグの成功例も要因だが、それ以上に巨人が中日・阪神にペナントレースで勝てなくなってきた、という側面も大きかった。それが1位にアドバンテージをつけなかった要因なのだが、2007年は巨人が予想に反して優勝してしまったため、逆にアドバンテージなしが仇となって墓穴を掘ることになった。
 巨人は、この失態に対し、翌年から慌てて1位にアドバンテージをつけて、4戦先勝制という1位有利の制度に変えさせることとなる。




(2012年5月作成)

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