充実した落合監督8年間の記録と記憶(6)
〜2006年〜


犬山 翔太
 
 15.交流戦でのリベンジ

 落合にとって2006年のリーグ優勝は、必須条件だった。監督1年目の2004年にリーグ優勝してしまった以上、それと同等かそれをしのぐ成績を残すしか、2007年以降へつなげる道はない。落合にとって最もプレッシャーのかかる年になる。
 落合は、前年のX逸により、さらなるチーム力強化を図った。ただし、前年のウッズ獲得のような補強はなかった。ドラフトで、後に落合政権で台頭してくる吉見、平田、藤井といった選手を獲得したのが目立つくらいである。現有戦力をさらに鍛え上げることによって、完全優勝できるチームを作り上げようとしたのである。

 しかし、2006年は、前年とはうって変ってスタートダッシュはできなかった。巨人が好調に勝ち星を積み重ねて首位に立ったからである。
 それでも、中日は、慌てなかった。地道な戦いぶりで貯金6、首位と3ゲーム差で交流戦に突入したのである。

 当時、前年の悪夢を思い起こして、中日の失速を心配する声は多かった。しかし、落合は、前年のような失態を繰り返すことはなかった。「5割でいい」発言はせず、主力選手を欠かすことなく、万全の状態で交流戦に突入させたのである。
 中日は、交流戦5試合目から5連勝するなど、セリーグ相手と同様に勝てる試合を堅実に勝つ野球で、交流戦を20勝15敗1分で4位というまずまずの成績を残す。前年に借金6を背負ったチームが貯金5を稼いだのである。その中でうれしい誤算として、若手投手の佐藤充が5勝0敗、防御率0.91という圧倒的な成績を残して台頭してきた。
 中日の成績も、前年とは逆になる。セリーグ2位で交流戦に突入した中日は、交流戦が終わったとき、2位阪神に1ゲーム差をつけてセリーグ首位に立っていたのである。

 この年も、前年同様、交流戦の成績がペナントレースの明暗を分けたと言っても過言ではない。
 交流戦まで首位を独走しようとしていた巨人は、交流戦を13勝23敗の11位と一気に負けこみ、ペナントレースから脱落する。一方で阪神が交流戦を21勝15敗の3位という好成績を残し、その後は首位の中日を阪神が追いかける展開が続くことになる。


 16.立浪から森野への世代交代

 2006年は、落合政権の中で最も戦力が充実していた年と言っても過言ではない。投手陣も野手陣も、多くの選手が全盛期を迎えようとしていた。
 そんな中で、あるポジションのレギュラー争いだけがし烈になってきていた。
 サードである。
 サードには、長年、中日を攻守の要として支え、ミスタードラゴンズとも称賛された立浪が守っていた。しかし、立浪も、肩に故障を抱え、2005年は打率.253、エラー12と年齢による衰えも見られるようになってきた。
 それでも、打撃面では、立浪を凌駕する技術を持つ選手は、なかなか現れず、通常であれば、このままレギュラーでも問題はないはずだった。

 しかし、投手を中心とした守りの野球を掲げる落合にとって、立浪の守備の衰えは、深刻だった。
 それゆえに、交流戦から、落合は、まだ充分に使える立浪を控えに回して、森野と渡邊を先発サードで起用し始める、という決断を下した。

 この決断には大きな批判がつきまとった。立浪は、この年、37歳になるシーズンとはいえ、中日では最も安打を量産してきた天才打者である。ファンも多く、立浪のプレーを見たいがために、球場に足を運ぶ人々も数多くいる。
 中日スポーツやネット上にも「立浪を干すのか」「引退させる気か」といった投書・投稿をよく見かけた。打撃の成長株で、守備範囲も立浪より広く若い森野をサードのレギュラーに据え、チームを強化してリーグ優勝への足掛かりにする、という落合の戦略が立浪を愛するファンからの大きな反発になって返ってきたのである。それでも、落合の信念は、揺らがなかった。
 渡邊と森野の併用は、明らかに渡邊をつなぎとして、森野の成長を待つという体制だった。そして、8月に入ると森野は、持ち前の打撃力を生かして、レギュラーを獲得することになる。

 この年、もしリーグ優勝を逃していれば、立浪のレギュラーはく奪は、大きな落合批判となって、落合を退任にまで追い込んでいたかもしれない。
 しかし、落合は、チームのさらなる強化を図るために、森野をサードで起用し、ミスタードラゴンズを代打の切り札に転換させる。そして、驚くべきことに、これが落合政権最初で最後のシーズン中世代交代となったのである。


 17.阪神の追撃を振り切る

 この年の中日は、打率・防御率ともにセリーグ1位を記録し、全5球団に勝ち越しという、いわば完全リーグ優勝であった。
 しかし、2位阪神とは打率で3厘、防御率で0.03しか違わない。そのわずかな差が3.5ゲーム差になった、とも言えなくはないが、その差以上に優勝争いはし烈を極めた。

 この年も、阪神は、井川・下柳・福原・安藤を中心に安定した先発陣とJFKの圧倒的な投手力によって、前年同様の強さを見せた。打線も赤星・金本・鳥谷・シーツを中心につながりがあった。
 しかし、中日も、川上・朝倉・山本昌・佐藤充・中田といた投手陣が充実し、リリーフも平井・岡本・岩瀬でJFKに匹敵する成績を残した。打線ではウッズ・福留・荒木・井端・森野・アレックス・井上らが安定した成績を残した。
 そんな拮抗する戦力の中で中日がリーグ優勝できたのは、勝つべき試合を確実に勝ったことにある。
 オールスター前に首位中日と2位阪神は1.5ゲーム差しかなかった。しかし、オールスター直後のナゴヤドーム直接対決3連戦で中日は投打に圧倒して3連勝を飾り、4.5ゲーム差に広げる。この3タテが中日の独走を加速させたと言っても過言ではない。

 ここで阪神との勝負を分けたのは、福留がオールスター後、初戦の阪神戦から3試合連続お立ち台の活躍を見せたことである。
 それは、右膝故障から1軍復帰に向けて2軍で調整していた福留が万全でないことを理由にオールスターゲームを辞退したことに端を発する。オールスターゲームを辞退すると、通常は10試合出場停止処分なのだが、特例規定で故障によるやむを得ない場合は処分の対象外になるのだった。
 ペナントレースを第一と考える落合は、福留に出場辞退を指示し、福留は、特例が適用されたオールスター直後の阪神3連戦にスタメンで大活躍して、首位争いをしていた阪神を3タテで突き放したのである。
 これは、阪神首脳陣や阪神ファンを中心に物議を醸し、結局、翌年以降、特例が認められないことに決まった。
 とはいえ、2006年は、ルールを熟知した落合がルールの範囲内でこの特例を巧みに有効活用した。リーグ優勝のために、些細なルールも見逃さない落合の緻密な戦略がペナントの行方を決したのである。

 この年は、2位阪神と3位ヤクルトの差が14.5ゲームあった。つまり、圧倒的に中日と阪神が強かったのだ。
 しかも、ペナントレースの鍵を握る9月は、中日が14勝9敗と好調であったが、阪神は、17勝4敗という中日をしのぐ成績で追い上げた。これほどまでの追い上げは、落合の想定以上で、8月には9ゲーム差あったのが10月7日には2ゲーム差まで縮まった。
 仮に10月8日の横浜戦で敗れれば、そのまま阪神に逆転を許しかねない状況にまで追い詰められたが、落合は、どんなに差を詰められても泰然自若とした余裕のコメントを貫いた。
 それは、投攻守すべての面で中日がわずかに阪神を上回っていることへの自信でもあり、監督が焦りや恐怖心を見せては選手の士気に影響することを知っていたからだ。
 中日は、ここでも10月8日から横浜・ヤクルト・巨人に3連勝し、阪神とのゲーム差を4に広げてリーグ優勝を果たす。重要な試合にことごとく勝利できた理由を求めるならば、落合のシーズンをトータルで考えた戦力配分が構想通りに実現したからである。

 それでも、10月10日のリーグ優勝後に見せた落合の涙は、阪神の追い上げがいかにすさまじかったかを物語る。
 10月8日の横浜戦は、一時は2−0とリードしながら、7回裏に3点を奪われて逆転を許し、8回表に2点を入れて再逆転するというシーソーゲーム。10月10日の巨人戦も、一時は3−0とリードしながらも3−3に追いつかれて、岩瀬を2回投げさせた挙句、延長12回に福留の決勝打とウッズの満塁本塁打で何とか勝つという苦しい試合であった。
 想定外の阪神の追い上げがありながら、構想通りの戦略で阪神をかわした落合会心のシーズンとなった。

 この年は、打線が爆発して圧勝する試合も数多くありながら、接戦も粘り強くものにするという勝ち方も多くあり、まさに落合が理想とするチームが出来上がった印象が強い。87勝54敗5分で貯金を33も作り、日本シリーズも圧勝に終わりそうな気配があった。


 18.最強でも日本シリーズ敗戦

 充実した戦力でリーグ優勝を勝ち取った中日。日本シリーズは、日本ハムとの対戦が決まったが、下馬評は圧倒的に中日だった。
 ニュース報道は、セリーグがどうしても中心になる。そうであるがゆえに、6月後半以降、1度も首位を譲らずにリーグ優勝した中日の強さがあまりにも強烈だった。

 しかし、冷静に見てみると、日本ハムは82勝54敗で貯金を28作り、チーム打率やチーム防御率も、中日とほぼ互角なのである。今、振り返れば、日本ハムが日本一になる可能性もかなり高かったわけだが、私は、中日が圧勝すると信じ込んでチケット入手に躍起になっていた記憶がある。

 第1戦は、下馬評通りだった。ダルビッシュを序盤で攻略した中日が川上・岩瀬のリレーで4−2と勝利を収めたからである。
 第2戦も、6回まで2−1とリードする展開となる。しかし、日本シリーズで1勝も挙げていない山本昌が稲葉にエラーで出塁を許すと、新庄に安打を許し、盗塁を決められたことにより、調子を崩してしまう。そして、金子の逆転タイムリーで痛い星を落とすことになるのである。
 この場面は、シリーズの流れを大きく変えた。稲葉・新庄という攻守の要となっている選手を調子に乗せ、山本昌は、またしても日本シリーズで勝てないという状況に陥ってしまったからである。

 ナゴヤドームから敵地札幌ドームに移った3戦目以降は、完全に押され続ける展開となり、打線が沈黙したまま、投手が持ちこたえられず敗戦を喫する展開が3試合続いた。
 圧倒的に勝利するはずが、新庄の引退祭りで盛り上がる日本ハムに圧倒される結果となったのである。5試合で稲葉には打率.353、2本塁打、新庄には打率.353、森本にも打率.368と打ち込まれ、投手陣は防御率3.86、打撃陣も打率.232と精彩を欠いたまま、シリーズが終わっていった。

 短期決戦に勝つことはペナントレースで勝つよりも、時の運に左右される分、確実性が低い。弱いチームが強いチームに7試合中4試合に勝つ、という結果を導き出すことは、さほど困難ではないのだ。
 私が確実視していた52年ぶりの日本一は、第2戦からの呪縛されたような試合運びによって、無残にも消えていった。どんな状況においても、力を発揮できる精神力。それだけが欠けていたように見えた。

 中日球団は、半世紀以上遠ざかる悲願の日本一を達成するため、落合と2007年から2年契約を結ぶ。白井オーナーも、落合に指揮を執らせておけば、日本一は時間の問題という見込みを立てていたのだ。こうして、2007年からの2年間で日本一を達成することが落合に課せられた使命となり、運命としか言いようのない2007年日本シリーズ第5戦へつながっていく。




(2012年4月作成)

Copyright (C) 2001- Yamainu Net 》 伝説のプレーヤー All Rights Reserved.


inserted by FC2 system