充実した落合監督8年間の記録と記憶(5)
〜2005年〜


犬山 翔太
 
 12.初めての補強

 右の日本人四番打者を育てる。それは、落合が就任時に発した公約の1つであった。それは、いわば三冠王を3回獲得した落合自身の後継者を作ることでもある。
 外国人選手でも右の四番打者は任せられるが、外国人選手の日本での野球生活は、一部の例外を除いてほとんどが5年に満たない。
 安定して四番を任せられることを最優先で考えれば、日本人の若手の中から四番打者を作り上げることである。数多くの右打者がいる中日で、その中から四番打者を、という理想は、選手を横一線でスタートさせた落合政権にとって大きな活性化材料となった。

 現有戦力の中から右の四番打者候補として、落合は、田上秀則、高橋光信、桜井好実、幕田賢治、仲澤忠厚、前田章宏らに期待をかけた。しかし、若手の中から四番打者を短期間で作り出すのは容易ではない。それまでくすぶっていた選手が突然開花することもないわけではないが、通常は、2軍で実績を残し、1軍で徐々に出場機会を増やしていき、レギュラーを勝ち取って大打者へと成長していく。  落合も、それを分かっていながら、若手を成長させるため、あえて四番打者という最大の目標を掲げて鼓舞したのである。

 結局、2004年のシーズンを通して、若手の中から日本人四番打者は現れなかった。四番打者は、既に実績を残してきた左打者の福留に頼るしかなかった。いきなりリーグ優勝を果たしたものの、リーグ覇者として研究され、追いかけられる身となれば、さらにチームを強化する必要がある。
 2004年は、自らの目ですべての選手の実力を見極めていないからこそ、解雇と補強を凍結して1年間、様々な選手を起用して試した。その結果、落合は、2004年の反省を踏まえた練習の強化だけでは、まだ足りないと考えた。そこで、落合は、解雇を解禁するとともに、チームに欠いている右の四番打者補強を進めたのである。

 そして、獲得に動いたのが、タイロン・ウッズである。ウッズは、横浜で四番を打ち、本塁打王を獲得しながら複数年契約が叶わず退団していた。突出した飛距離を誇るスラッガーでありながら、広角に打てる技術を持ち、打率もいい。2003年から2年連続で40本塁打以上を記録しており、まさに落合が理想とする右の四番打者である。守備に不安こそあったものの、それをカバーして余りある打撃は、チーム最大の得点源となる可能性を秘めていた。
 落合は、理想のチームを作り上げるため、アメリカ人であるウッズを四番に据え、球団史上初となるリーグ連覇と51年ぶりの日本一を狙いに行く強い姿勢を示したのである。


 13.2つの失敗

 2005年、中日は、セリーグチャンピオンとして順調ななスタートを切った。開幕の横浜戦ではアレックスのサヨナラ満塁本塁打で川上が4−0の完封勝利を挙げ、そのまま交流戦の開始前の5月5日まで20勝9敗で2位に5ゲーム差をつける独走態勢を築いていた。
 ウッズを四番に据えた打線が順調に機能し、投手陣も安定した投球を続けた。マスコミは、今年も中日がこのまま優勝するのではと書き立てていた。

 しかし、このとき、中日は、2つの失敗を犯していた。私は、落合の8年間をすべてが完璧で、落合の采配に何のミスもなかった、と称賛するつもりはない。
 どんな名監督で優れた理論や計画を持っていたとしても、必ず失敗はある。想定外の出来事が起こって、理論や計画が破たんしてしまうことがある。
 それが悪い方向に出てしまったのが2005年5月だった。
 まず、5月5日のヤクルト戦で、四番打者として活躍していたウッズが試合中に暴行を働き、10試合の出場停止処分を受けてしまったのである。10試合離れるということは、試合勘が戻るまでさらに5試合ほどかかると考えれば、15試合を不完全なチーム状態で戦わざるを得なくなったということである。

 それだけではなかった。2005年5月6日からは、プロ野球史上初のセパ交流戦が始まることになっていた。
 やってみなければ、ペナントレースにどのような影響が出るかわからない交流戦について、落合は、インタビューでこんなコメントを出した。
「交流戦は、5割でいけばいい」
 こんな余裕のコメントが失敗だった。タイロン・ウッズを欠き、交流戦の目標を低く見積もった中日は、初戦に完封負けを喫すると、最初の10試合で2勝8敗と大きく負け越し、交流戦開始から20試合で5勝15敗というありえない成績を残してしまう。
 そうしているうちに、交流戦で勝ち星を重ねて上がってきた阪神に5月22日には首位を明け渡すことになる。

 交流戦の終盤には若干盛り返したものの、結局、中日は、15勝21敗の9位に終わる。逆に阪神は、21勝13敗2分のセリーグ1位、全体でも3位の好成績を収め、中日に2ゲーム差をつけてセリーグ首位に躍り出たのである。


 14.敗北感なき敗北

 交流戦は、想定以上の惨敗だった。横浜より下位に沈み、中日より下にいたセリーグチームは広島だけだった。落合は、その後、2度と「交流戦は5割でいい」という発言はしなかった。
 翌年以降、落合は、この年の反省を踏まえて常時10人を超えるスコアラーにパリーグ6球団を徹底的に研究させ、2006年以降は交流戦でも安定した成績を残していくことになる。
 しかし、この年だけは、もはや取り返しがつかない失敗となってしまった。何せ中日は、5ゲーム差をつけたセリーグ首位で交流戦に入りながら交流戦終了後には阪神を2ゲーム差で追う展開となり、実に交流戦だけで7ゲーム差をつけられた計算となる。

 それでも、逆転でリーグ優勝を果たすチャンスがなかったわけではない。中日は、8月に2度、首位阪神まで0.5ゲーム差に詰め寄っているからである。
 1回目は、8月9日の直接対決に勝利して8月10日を迎えたときである。この日も、直接対決で、中日は、先発朝倉、阪神は、先発福原で始まった。ナゴヤドームでの試合であり、追い詰めた中日優位な状況の中、朝倉が金本に初回から3ラン本塁打を浴びるなど、5回4失点と崩れ、3−5で試合を落とす。
 そして、2回目は、8月31日に中日が直接対決で勝利し、0.5ゲーム差で9月1日の直接対決を迎えたときである。この試合は、甲子園で行われ、中日が先発山本昌、阪神が先発下柳で始まり、中日が幸先よく初回に1点を先制する。しかし、3回に山本昌が今岡に逆転3ラン本塁打を浴び、結局、1−8で大敗してしまった。

 この2試合は、勝っていれば、中日が逆に0.5ゲーム差をつけて首位だっただけに、ペナントの行方を占う重要な1戦と言えた。ここで勝っていても、リーグ優勝できたとは限らないが、勝っていれば、少なくとも最終的に大差がつく展開にはなっていなかったはずである。

 9月1日の敗北後、阪神が加速したのに反し、中日は足踏みを続け、結局9月29日には阪神に8ゲーム差をつけられ、リーグ優勝を奪われてしまう。この年の阪神は、J・ウィリアムズ、藤川球児、久保田智之が台頭してきて、いわゆるJFKの強力3枚救援陣が誕生し、その勢いは最後まで衰えなかった。

 しかし、仮に交流戦の7ゲーム差がなければ、どうなっていたか。結果が出た後に、過去の過程を語るのは野暮だが、計算上は阪神がリーグ優勝を決めた9月29日時点でもまだ0.5ゲーム差しかなかったことになる。それ以前に、8月31日の段階では6.5ゲーム差をつけて首位を走っていた計算になり、阪神が勢いづいてリーグ優勝に突き進む展開にはならなかったはずだ。仮に2005年の交流戦が2004年以前のように存在しなければ、中日が連覇を果たしていた可能性は限りなく高い。

 阪神が優勝を決めた9月29日までのシーズン成績は、77勝61敗。交流戦の成績を除けば62勝40敗。交流戦抜きで見れば、優勝していてもおかしくない成績であったことが分かる。

 2005年の中日は、敗北だったのか。その問いに私は、敗北ではなかったと答えたい。
 セリーグでの戦いは、限りなく勝利に近い成績を残した。にもかかわらず、パリーグとの戦いでは惨敗した。
 まさに、中日は、敗北感なき敗北を喫したのである。それだけに、交流戦に入る前の2つの失敗はあまりにも代償が大きかったのである。
 落合は、ナゴヤドームでの最終戦後、選手の健闘を称え、ファンに対しては、V逸を自らの責任と謝罪した。そして、2006年に向けての準備をすぐに進めていくことを誓った。
 どのチームよりも、早く2006年に向けて動き始めた中日。完全制覇のため、一切の妥協はなかった。
                    (続く)





(2012年3月作成)

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