充実した落合監督8年間の記録と記憶(3)
〜2004年前半〜



犬山 翔太
 
  6.引退後、どの球団で指導者をするか

 1998年、落合は、この年限りで20年間に及ぶ現役生活を終えた。私は、まだ代打の切り札なら充分に戦力となると確信していたが、そういう役割で落合を獲得する球団はついには現れなかった。
 落合も、正式な引退表明をせず、自由契約選手として獲得球団を待ち、どの球団も獲得の意向を示さなかったことで現役生活に幕を閉じたのである。
 自分を最も必要とする球団で働き、必要とされなくなったら自然に引退する。そうやってプロ4球団を渡り歩いてきた落合は、最後まで自らの意志を貫き通した。

 落合の現役生活が終わったとき、私は、落合がどの球団の指導者になるか興味を持った。4球団に所属したが、巨人は生え抜き以外監督になれないという不文律があるため、可能性が高いのはロッテ、中日、日本ハムの3球団だった。
 しかし、落合は、現役生活を通じて一匹狼のイメージがつきまとい、独自の言動と練習法は、「オレ流」と称された。また、マスコミに多くを語らないため、残した成績の割には称賛されることは少なく、最も高く評価してもらえる球団で働くという一貫した姿勢は、マスコミからの標的となった。

 ロッテ在籍時は、落合の良き理解者であった稲尾監督解任を受けて、落合が球団批判を含む発言をしたと、マスコミに書きたてられ、追い出されるように中日に移籍している。日本ハム時代には指導者との野球観の違いから気力を持続させられず、代打に追いやられて引退することになった。
 その中で、中日との関係は、良好なまま残っていた。1991年の年俸調停やFA宣言で中日球団と溝があるように世間では受け止められていたが、実際の年俸調停は球団と落合が合議の上で第三者に判断を委ねるのが最善と判断したためである。また、FA宣言での巨人移籍は、選手の権利を強固にしたい、という想いと、落合が少年の頃から唯一の憧れであった長嶋茂雄監督の力になりたい、という強い想いが重なったためである。中日球団と高木監督は、落合のFA宣言に理解を示し、円満な話し合いを経て巨人移籍が決まっている。親会社である新聞記者との関係も、中日スポーツの記事を見る限り、在籍した7年間、ずっと良好だった。

 だが、たとえ中日球団との関係が良好であったとしても、生え抜きでもなく、FA宣言で出ていった落合を監督として招へいするとは、なかなか考えにくかった。
 その通り、落合は、1999年から2003年まで5年間にわたって、どの球団の指導者にもなっていない。一度、2001年に落合は、横浜のキャンプに臨時コーチとして3日間だけ指導を行っているのみである。これは、横浜の森祇晶監督が落合の卓越した打撃技術を認めて起用したためで、お試しの意味合いが強かった。
 落合のプロ指導経験は、これだけだった。

 そして、もう1つ落合を指導者として起用し辛い点は、落合が現役生活で圧倒的な成績を残していながら、20年間でリーグ優勝3回、日本一1回という平凡な優勝実績しかないことだった。落合は、3回も3冠王を獲得しているが、そのうち1度もチームは優勝できなかった。口の悪いマスコミは、落合を唯我独尊の人のように書き立てたため、落合は、チームより自分の成績だけを考えてきた個人主義者のレッテルを貼られてしまっていたのである。

 事実、落合自身も、後に語っているように、自らを監督に起用する球団が出てくるはずはない、と高を括っていたようである。それは、世間の見方も私の見方も同じだったのだが、私は、仮に指導者になる可能性があるなら中日、というかすかな予感だけは持っていた。


 7.コーチ経験なしでいきなり中日監督に就任

 落合が指導者になるときは、大きな衝撃とともにやってきた。2003年10月8日、くしくもあの伝説の10.8決戦と同じ日に中日監督への就任が発表になったのである。落合が選手として中日をFA宣言で出て以来、10年がたっていた。

 なぜ落合を監督にするのか。一匹狼のイメージがあまりに強いため、当時の中日ファンの間では動揺が広がった。
 落合の監督起用を決断したのは、白井文吾オーナーだった。白井は、落合の著書を購読し、その理論に感銘を受けて監督に起用したのである。
 1990年代に入って以降、14年間で1回しか優勝のない中日にとって、強いチームを作ることは至上命題だった。

 白井がチームを強化するために、数多くのプロ野球選手OBの中から選び抜いたのが落合なのである。
 落合は、白井の要請を受けて、当初は、監督業を引き受けるかどうか迷っている。そんな中、家族の後押しと、コーチ人事の全権を任されるという契約により、落合は、中日監督に就任した。

 落合は、監督就任後、当時の常識を覆す言動によって、チームを改革していく。その斬新さについては、私も、コラムの中で驚きと期待を持って書き留めている。
 伝説のコラム『プロフェッショナルの理論  〜落合博満新監督の斬新さ〜』

 だが、そうした期待を持って見ていたのは、私をはじめとする落合ファンだけだった。
 周囲の反応は、極めて冷ややかで、マスコミや選手、ファンも期待よりも不安の声が圧倒的だった。
 そんな中で、私の記憶に残っているのは、ニュースキャスターだった筑紫哲也と山本昌の発言である。
 筑紫哲也は、落合監督の就任会見後、ニュースでこんなコメントを残した。
「落合さんは、抜群に頭のいい人ですから、これからが楽しみですね」
 山本昌も、落合監督就任に対するコメントとしてインタビューにこう答えた。
「これからやりやすくなるんじゃないですか」
 筑紫は、ニュースキャスターとして長年にわたって落合を取材してきていた。山本昌もまた、落合とは1987年からチームメイトとして7年間を過ごしていた。

 落合をよく知る者と落合をあまり知らない者とでは、反応が全く正反対になる。落合が発信するコメントは、4行詩とも揶揄されるほど、哲学的で短い。それをマスコミが悪意を持って解釈するため、落合をよく知らない者は、マスコミが作り上げた虚像を信じてしまう。それゆえに一般的なプロ野球ファンは、選手が誰も付いてこない独裁的な指導者になるのではないか、という見方をしてしまったのである。

 今になって思えば、まさに筑紫哲也と山本昌の発言は、的を射ていたことになる。ほとんど補強なしに常に優勝争いをするチームを作り上げ、選手やコーチとは相互信頼の上で好結果を残し続けたからである。


 8.サプライズ

 サプライズという言葉が流行したのは、2004年である。小泉純一郎首相が武部勤を幹事長に起用し、田中真紀子を大臣に起用した人事などがサプライズと話題を呼び、競馬のCMにも使われたことによって、全国でこの言葉が浸透して流行語となった。
 そんな中で、落合監督の開幕投手川崎憲次郎起用もまた、サプライズとして有名になった。小泉首相退陣後も、落合が山井交代をはじめとする様々なサプライズ采配を見せたことによって、サプライズは、小泉純一郎よりも落合のイメージの方が強くなってしまった感さえある。

 現在も語られることが多い就任1年目だけ見ても、現有戦力10%の底上げで優勝発言、1年間の解雇凍結、2月1日のキャンプ初日に紅白戦、6勤1休の質量ともに豊富なキャンプ、川崎憲次郎の開幕戦先発、攻撃よりも守備に重点を置いて起用する采配などが挙げられる。

 しかし、それよりも私が評価したいサプライズが2つある。
 まず1つは、落合が森繁和を投手コーチに起用し、投手陣に対する全権を任せたことである。
 驚くべきことに落合と森は、それまで一切交友がなかったという。アマチュア時代に日本代表のチームメイトとなったことがあり、またプロ野球選手としても活躍していたので、球場で話をすることはあっただろうが、それ以上の親交はなかったのである。

 なのに、落合は、なぜ森に投手陣をまるごと預けたのか。これは、落合の著書『采配』にもあるように、現役時代の落合が投手でなく、打者だったためである。投手の状態を正確に見られるのが投手出身者が最適である。そこで、西武の黄金時代を知りつくし、常に主力投手・投手コーチとして活躍し続け、1度もユニフォームを脱いだことがないほど重宝されていた森に声をかけたのである。

 そのほかにも、高代延博、長嶋清幸も同様に、選手・コーチを通じてユニフォームを着続けてきた選手。そして、石嶺和彦は、現役時代に最も内角打ちが上手かったと落合評価している名選手。落合は、どの球団もが必要とするコーチ、卓越した技術を持つコーチといった能力重視の選択をしたのである。
 この4人は、いずれも選手時代に中日でプレーしたことがなく、いわゆる「外様」である。彼らを主要なコーチに抜擢できたのは、落合が球団との監督契約時に、すべてのコーチ人事権を監督が持つ、という条件を監督就任の必須事項としたからである。
 こうして落合が個性豊かな4人の外様コーチを起用し、それぞれが自らの持ち味を存分に発揮できる場を提供したとき、もはや2004年の中日がどのような成績を残すかは、約束されていたと言っても過言ではない。




(2012年2月作成)

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