充実した落合監督8年間の記録と記憶(10)
〜2009年〜


犬山 翔太
 
 28.主軸3人が抜けて低い下馬評

 2008年オフは、衝撃的な退団が相次ぐ騒動となった。
 四番打者タイロン・ウッズ、エース川上憲伸、中軸打者中村紀洋が相次いで退団したのである。
 タイロン・ウッズは、高年齢がネックとなり、球団が提示した大幅減俸で決裂し、退団となった。また、川上は、かねてより大リーグ挑戦の意志があり、この年に取得したFA権を行使して、大リーグのブレーブスへ移籍した。さらに、森野のサード再転向によってファースト転向を伝えられた中村紀洋がサードでのレギュラーにこだわるため、FA権を再行使して楽天へと移籍した。

 落合は、彼らの退団に対して慰留しなかった。福留の大リーグ挑戦のときもそうだったように、落合は、選手の希望を最大限に尊重し、口を挟まない。
 それがときに非情に見えたりするが、あくまで選択権のある選手たちには、自分のことは自分で決めるべき、というプロ意識を求めている。

 落合自身も、北京五輪で主力が疲弊した状況があったとはいえ、監督生活最低の3位となったことで、一転して苦境に立たされることになった。そこへ主力の大量流出が重なった。それでも、白井オーナーは、このチーム状態を立て直せるのは、落合しかいない、という全幅の信頼の元、落合と3年契約を結ぶ。

 落合も、抜けた選手の穴埋めを行う。タイロン・ウッズに代わる四番打者として、ドミニカから安価でブランコを獲得した。川上の代わりとしては、ドミニカ人のパヤノ、浪人中の河原純一、新人で伊藤準規、岩田慎司を獲得した。森野のサード再転向についても、外野の一角が空くため、アマチュアナンバー1外野手野本圭を獲得する。

 とはいえ、主軸3人が抜けたにもかかわらず、獲得したのはは、実力や状態が未知数の安価な選手ばかりだった。
 下馬評は、当然のように低く、シーズン前のマスコミや野球評論家の評価はほとんどBクラスだった。何せ2008年は、戦力が整っていながら3位であり、チーム打率は、リーグ最低の.253だった。
 単純にデータから分析する人々がBクラスを予想するのは無理がなかった。

 しかし、落合は、強気に優勝を狙う姿勢を崩さなかった。「一番面白いシーズンになる」と、むしろシーズンでの巻き返しを楽しもうとしているようにさえ見えた。
 ところが、WBCで中日選手がすべて不参加だったことがシーズンに大きな向かい風として吹き荒れることになる。


 29.WBC不参加騒動

 2009年3月は、第2回WBCが開催されることになっていた。2006年の第1回WBCで世界一を獲得した日本代表にとって、2009年はディフェンディングチャンピオンとして望む大会である。
 連続世界一を期待する国民の声は多く、日本代表監督選びから難航する。
 当初、第2回WBC監督には星野仙一が濃厚だった。しかし、北京五輪で不可解な采配が続き、メダルなしの4位に終わってから、世論は、星野外しの方へ動いていった。

 その結果、現役のプロ野球監督に、という案が勢力を強め、日本一になった経験を持つ現役監督が次々と名前が挙がる。まず最初に挙がったのが2007年に中日で日本一を達成した落合である。しかし、落合は、監督就任要請を固辞する。続いて、2008年に西武で日本一を達成した渡辺久信の名前が挙がったが、渡辺は、西武監督1年目でWBC監督に就任することに消極的だった。そして、2008年にリーグ2連覇を達成し、2002年には巨人を日本一にした原辰徳に就任要請が回っていく。結局、原は、監督就任要請を受諾し、第2回WBC監督に決定した。

 その後、原は、WBC日本代表選手を選考したが、そこで第2回WBC最大の騒動が起きる。選ばれた中日の岩瀬・浅尾・高橋・森野・和田の5人がすべて辞退したのである。辞退理由を表明する必要はなかったが、全員が辞退しただけに、マスコミや世間は、中日がWBCをボイコットしたかのように騒ぎ立てた。

 そのため、岩瀬・森野・和田は、体調が万全でないこと、浅尾は、年間通してまだ活躍したことがないこと、高橋は、調整面で不安があること、といった辞退理由を公表させられた。
 だが、実際は、中日の全選手が辞退したわけではなく、台湾代表としてチェンは出場を快諾していた。また、球団や落合が主導でWBC日本代表を辞退させた事実は一切なかったが、マスコミや原は、中日球団を一方的に批判した。

 日本代表は、中日選手抜きでWBC2連覇を達成したものの、WBCで活躍して疲弊した選手たちを抱える球団は、ペナントレースで不利になることが想定できたため、シーズンが始まっても、中日への風当たりは一層増すことになる。


 30.低い下馬評を覆す2位

 この年も、巨人の戦力は、圧倒的だった。元々突出した戦力にヤクルトからゴンザレスが加わり、さらに、坂本勇人・松本哲也・東野峻が急成長して極めて重厚な戦力が整ったのである。
 特に、この当時の巨人は、山口鉄也が育成選手から台頭して、チームの柱となるセットアッパーに成長したことから、大量の育成選手を保有し、自前で生え抜きの一流選手を育てようという試みをしていた。
 その中から、この年は、松本哲也が走好守にすさまじい働きを見せて新人王を獲得する。
 巨人は、この2人の成功に味を占めて、補強をせずに自前の選手を育てて強くしようとする方針を前面に打ち出したことから2010年、2011年とリーグ優勝を逃すことになる。だが、2009年に限っては、育成選手松本の奇跡的な成功によって圧倒的な強さでリーグ優勝に突き進む。

 一方の中日は、世間の下馬評が低く、久しぶりにBクラスに転落するのではないか、との見方が大勢を占めた。
 それでも、落合は、「面白いシーズンになる」と予測し、リーグ優勝に対する意欲を見せていた。

 その意欲の一端が表れたのが、開幕投手浅尾拓也である。浅尾は、前年に7勝9敗6セーブの成績を残していた。どの球も一級品であり、この年には、さらなる飛躍は確実だった。
 首脳陣は、浅尾にリリーフ投手としての素質を見出していた。しかし、浅尾が希望したのは先発だった。
 そんな浅尾を中日の首脳陣は、開幕投手に指名した。
 中田・朝倉・小笠原・吉見・山井といった先発で実績を残した投手陣を差し置いて、浅尾である。当然のように、浅尾を開幕投手に予想した人々はほとんどおらず、まさにサプライズ登板となった。

 しかし、この浅尾の開幕投手抜擢は、2004年の川崎憲次郎とは全く異なる意図を持っていた。開幕投手浅尾を決断した森コーチは、線が細くスタミナに不安がある浅尾の適性がリリーフであることを早くから見抜いていた。
 そのため、先発を希望する浅尾をいかにしてリリーフに転向させるかを考え、開幕投手に指名したのである。つまり、シーズン序盤をローテーションの先頭で回し、本人を早く納得させたうえでリリーフに転向させるという、誰もが納得できる最善の方式をとったのである。
 浅尾は、開幕試合では8回1失点で勝利投手になった。しかし、その後、試合の中盤から終盤にかけて崩れる場面が目立ち、5月には森の目論見通り、リリーフに転向することになる。

 下馬評の低かった中日だが、主軸3人が抜けた穴を他の選手が埋めて、下馬評を覆していく。主砲ウッズの代わりに安価で獲得したブランコがウッズの穴を埋める活躍を見せた。さらに中村紀の代わりに森野がサードに入り、森野の代わりに外野に入った藤井がまずまずの活躍を見せた。
 そして、エース川上の代わりに吉見・チェン・川井が台頭し、吉見は、最多勝を獲得、チェンは、最優秀防御率を獲得する好成績を残した。

 だが、その一方で、数々の誤算もあった。4月に守備の要である谷繁が故障離脱し、WBC不参加の影響で選手たちへの批判も根強く残っていた。巨人をはじめとする他球団は、そんな中日を相手に目の色を変えて勝ちに来たのである。
 それでも、中日は、ブランコが覚醒した6月からすさまじい勢いで、圧倒的な戦力を誇る巨人を追い詰めていく。5月半ばには最大9ゲームあった差を8月5日には1ゲーム差まで縮めたのである。
 しかし、そんな猛追も、8月25日からのナゴヤドームでの巨人3連戦で3連敗を喫したことで一気に優勝が遠ざかってしまう。この3連戦を機に徐々に後退した中日は、首位巨人に12.5ゲーム差をつけられて敗れるのである。
 続くクライマックスシリーズも完敗を喫した中日は、2年連続で日本シリーズ進出を逃す、という落合政権最大にして唯一の屈辱を味わうことになる。


 31.巨人が7年ぶりの日本一を謳歌する陰で

 落合は、この年、初めて負けたという感覚を持ったという旨のコメントを発表する。
 確かにこの年は、チーム打率でも、チーム防御率でも、そして対戦成績でも巨人に敗れた。特に対戦成績は8勝16敗と、落合政権最悪の成績が残ったのである。

 この頃の中日と巨人の違いを見るには、巨人の原辰徳監督がこの年のリーグ優勝時に読売新聞に寄稿した手記で解明できる。

「チームを強くするには、外国人選手、FA、トレードによる補強、全てが必要だ。
 しかし、よみうりランド(ジャイアンツ球場)で泥んこになって鍛えられた選手が、東京ドームのスポットライトの下で大歓声を受ける姿がどれほどチームに影響を与えることか。」(読売新聞2009.9.24)


 巨人は、1990年代半ばから、外国人選手、FA選手、トレードで獲得した選手が中心になって優勝を勝ち取ってきた。

 そして、2009年には外国人選手としてグライシンガー、ゴンザレス、クルーン、オビスポ、ラミレス、李承Yが揃い、FA選手としては小笠原、豊田、トレードで谷、マイケル中村、木村拓、大道、工藤と選手はそろっていた。
 それに加えて、大量保有する育成選手の中から山口、松本の2人が台頭し、ドラフト入団選手の中からも内海、東野、越智、坂本、脇谷といった若手が台頭してきた。
 まさに考えられる限りのあらゆる補強をして作り上げた巨人がこの年のチームだったと言える。
 特に、外国人選手については、他球団で既に活躍していて、実力と日本野球への適性が確かなグライシンガー、ゴンザレス、クルーン、ラミレス、李承Yといった選手を揃えたことで、スカウト陣の目に頼ることなく、確実な補強をしたのである。
 この戦力では、実際のところ、優勝しないことの方が難しい状況ではあったが、シーズン前の世間の想定通り、圧倒的な強さでの優勝という結果とが出た。

 その一方で中日の場合は、落合の希望により、巨人のように莫大な投資はせず、安価な外国人選手と中日入団を希望するFA選手、そして、他球団で出場機会に恵まれない選手による補強が主だった。そのため、所属先無しで浪人寸前だった三塁手中村紀洋を除いてはポジションが被る選手を補強することはなく、あくまでレギュラーが確定していないポジションへの補強にとどめていた。
 さらに、巨人と異なるのは、中日ではレギュラーがいるため、出場機会に恵まれないが他球団で必要とされる選手は、落合が積極的にトレードで放出してきた。鉄平、森岡、新井良などである。
 こうして落合は、無駄を省いた必要最小限の戦力のみでチームを作り、プロ野球全体の活性化への貢献も怠らなかったのである。

 そんな中、原の優勝手記の中で、マスコミ報道によってあまりにも有名になった中日批判は、中日の実情から見れば、完全に的外れであった。

「WBCに中日の選手は一人も出場しなかった。どんなチーム事情があったかは分からないが、日本代表監督の立場としては『侍ジャパン』として戦えるメンバーが中日にはいなかったものとして、自分の中で消化せざるを得なかった。
 野球の本質を理解した選手が多く、いつもスキのない野球を仕掛けてくる中日の強さには敬服するが、スポーツの原点から外れた閉塞感の様なものに違和感を覚えることがある。
 今年最初の3連戦、しかも敵地で中日に3連勝出来たことは、格別の感があった。」(読売新聞2009.9.24)


 この年の巨人は、原の個人的な怨恨から、中日戦に全精力をつぎ込む執念を見せてきた。それが功を奏して圧倒的なリーグ優勝を果たすことにつながりはしたが、見解は明らかに誤りであり、長期的な視野に立つ中日の底力も見誤っていた。
 WBC出場辞退のとき、岩瀬・森野・和田は、体調が万全でないこと、浅尾は、年間通して活躍したことがないこと、高橋は、調整面で不安があること、といった理由を公表した。特に岩瀬と森野は、北京五輪で過激な国内批判を受け、WBCに出場できる精神状態ではなかった。
 中日は、落合就任後、一貫してペナントを勝ち取ることを第一優先としてきた。ゆえに、選手にもそれが浸透していて、自らの状態と立場を冷静に判断したとき、いずれの選手もWBCを二の次とせざるをえなかったのである。
 原は、かつての巨人の栄光を笠に着て、日本人選手は、お国のために全力で戦わなければならない、という軍国主義的な考えの下で『侍ジャパン』を指揮したわけだが、アマチュア中心の大会とは異なり、出場するリスクの大きさに対する考慮と配慮が欠如していた。

 原にとっては、ペナントレースを優先する選手たちや、チームの内情を全くマスコミに漏らさず、故障者情報や先発情報も一切流さない中日のやり方を「スポーツの原点から外れた閉塞感」と表現したが、それは、原自身が戦前から続く高校野球のような爽やかさとひたむきさのスポーツマンシップを理想としているためである。
 しかし、それは、職業野球の世界では通用しない。監督が寝ていても勝てると揶揄される巨大戦力を保持する巨人であれば、正々堂々と試合をしていれば勝てるのだが、他の球団はそうもいかない。自前の選手を鍛え上げて、シーズン通していかに調整をして有利に戦いを進めていくかを綿密に練り上げなければ、巨人の上に行くことはできないのである。
 それは、裏を返せば、巨人が他球団には真似できない資金力と人脈を駆使して、スポーツマンシップに反するほど巨大な戦力を抱えているからに他ならない。
 2009年の中日は、巨人の巨大戦力に屈することにはなったが、落合野球の一貫した信念は、翌年と翌々年にいかんなく発揮されることになる。

 原の手記を読み返してみると、原は、寄せ集めの戦力が個々の実力通りに機能した2009年の圧勝を、自らの指導力、育成力の成果という大きな誤解をしてしまっている。
 巨人は、育成選手2人の奇跡的な活躍により、3連覇が外国人選手と他球団選手を中心とする寄せ集めの賜物であることを忘れて、この年から育成中心へのチーム作りへ切り替えて行こうとする。
 それにより、巨人は、翌年、翌々年とチーム力を落としていき、お家騒動とまで呼ばれた清武騒動へと突き進んでいくのである。




(2012年9月作成)

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