充実した8年間の記録と記憶(1)
〜2011年前半〜


犬山 翔太
 
 1.落合監督退任による脱力感を埋めるために

 中日ドラゴンズ落合博満監督の8年間が幕を閉じた。
 最後となった日本シリーズは、持てる戦力をすべて使い切っての惜敗である。

 思えば、2003年秋に3年契約で落合が中日の指揮をとることが決まったとき、私は、「中日の半世紀ぶりの日本一奪回へ使命を帯びた監督」という記述を残した。
 プロ野球界随一の野球理論を持つ落合なら半世紀の重い扉を開いて、中日を新しいチームへと変貌させてくれるのではないか。そう期待したからである。
 落合は、3年契約の間には、日本一を達成することはできなかったが、3年間で2回のリーグ優勝、1回の2位という成績を残してそこから2年契約を結び、就任4年目の2007年にはついに中日を53年ぶりの日本一へ導いた。

 そして、2009年からは、さらに3年契約を結んで、2011年には中日の球団史上で誰も成しえなかったリーグ連覇を達成した。リーグ優勝争いの渦中に中日球団が一方的に監督解任やコーチ大量解任を発表する妨害工作を乗り越えて……。
 落合は、球団と再契約をする度に、球団をさらなる高みに導いたのである。

 この8年間は、落合ファンであり、プロ野球ファンでもある私にとって、落合が現役選手だった頃以上の熱い想いを抱かせてくれた時間だった。それとともに、2003年までは知らなかった野球やプロ野球の魅力を私に教えてくれた。さらに、プロ野球界に潜む様々な問題も浮き彫りにしてくれた。そのため、最も充実した8年間を過ごすことができたのである。

 ただ、この8年間が強烈であったがゆえに、落合監督退任に伴って彼の言動があまり報道されなくなり、私は、大きな脱力感にさいなまれている。
 私は、それを埋めるため、落合監督と苦楽を共にした8年間の記憶をたどりながら、プロ野球の魅力とその問題点を語っていきたい。

 
 2.激動を予感させる2011年の開幕前

 まずは、2011年のシーズンから語りたい。この年は、落合監督の3年契約最終年である。もしかしたら2011年限りで契約終了となるのではないか。そんな懸念が最初からあった。そして、3月25日に西川順之助球団社長が退任したことで、落合監督の続投はないかもしれない、という思いが私の脳裏をよぎった。

 落合やコーチ陣も、そんな球団の動きを敏感に察知していた。球団史上初の連覇を達成して、かっこよく辞める、という団結を見せることになる。

 中日は、2010年にリーグ優勝を果たしたとはいえ、大型補強をしなかった。そのため、中日の戦力は、巨人や阪神に比べるとかなり見劣りするものだった。
 巨人や阪神は、優勝できなかったこともあって、巨大戦力をさらに巨大にすべく、大型補強を重ねていた。
 それでも、落合は、対抗しようとはしなかった。代打の切り札がいない、という点を補てんするため、横浜を戦力外になった佐伯を獲得。そして、ライトを守れる外野手ということでドミニカ人の若手グスマンを獲得する。そして、投手を中心とした野球ということで、ベネズエラ人の若手投手ソトを獲得し、ドラフト1位では故障中の仏教大投手大野雄大を指名した。
 つまり、足りない部分だけを補う。これが就任以来一貫した落合の方針である。言いかえれば、この程度の補充で連覇は達成できる、という目論見でもあった。

 しかし、2011年は、例年にない出来事が多発する年となる。最大の出来事と言えば、3月11日に起きた東日本大震災である。東北の太平洋側を中心に多数の死傷者を出した地震と津波、そして、日本中を深刻な被害に陥れた福島原発の爆発事故。東京電力の迷走が拍車をかける形で、日本中が電力不足に対する不安で騒然となった。
 プロ野球選手会は、開幕日の延期を求め、世論も巻き込む紆余曲折の結果、開幕日が3月25日から4月12日に延びた。そのため、日本シリーズが11月後半になる、という変則的な日程となった。

 中日にとっても、この日程変更には大きな影響を受けた。落合監督就任以来初となるビジターでの開幕となったからである。調子が狂った中日は、開幕から前年最下位の横浜に負け越す、というありえないスタートを切ることになる。
 だが、1年という長い期間を戦う上で、想定外はつきものである。落合監督の8年間の中で、ほとんど想定外のなかった年は、私の思い浮かぶ範囲では2006年のペナントレースくらいである。


 3.2011年前半戦と恐るべき計算

 2011年の中日は、開幕3連戦で負け越してから一向に調子が上がってこなかった。そのため、4月は、1度も貯金することなく終わっていく。
 何せ、この年は、吉見、チェン、山本昌、山井、小笠原といった主力投手陣を故障で欠いての開幕である。
 5月前半、落合監督のコメントは、世間を賑わせた。まずは、ヤクルトに開幕5連敗で5位となった5月4日試合後。
「24負けても、よそに24勝てばいいんだ。144試合トータルで考えないとだめなんだよ」(中日新聞2011.10.22)
 さらに5月7日の巨人戦連敗後。
「これで何敗目?11敗目?まだ50は負けられるな」(中日新聞2011.10.22)
 この時点で8勝11敗の5位。マスコミは、連覇の可能性が消えたかのように騒ぎ立てたが、落合のコメントは、落ち着き払っていた。
 それが逆に覇気がないと感じる一部のファンは、ネット上で批判を展開した。

 確かに後になってみれば、落合監督の読みに狂いはなかった。2010年のセリーグ最大引き分け数4を仮に想定すると、11敗に50敗を足して61敗なら79勝。79勝61敗での勝率.564は、2011年の結果から見ると、確実に優勝できる数字なのである。
 この年、延長戦は、原発爆発の影響を受け、3時間半を超えたら次の回に入らないという特別規定ができた。それにより、中日は、10引き分けを記録するが、それで61敗したとしても73勝61敗で勝率.545となり、ヤクルトの勝率.543をわずかに上回るのである。他チームの状況を完璧なまでに把握しなければ成り立たない計算がそこにある。
 この恐るべき計算を本当の意味で理解していたのは、おそらく落合監督をはじめとする中日首脳陣だけだったように思う。

 そんな状況の中、吉見とチェンが戻ってきた中日は、徐々に調子を取り戻して交流戦では14勝10敗とセリーグで唯一の勝ち越しを決めた。
 交流戦で勝ち越し、という結果は出たものの、そこに隠された大きな戦力減が後に響く。ブランコと谷繁が相次いで故障離脱を余儀なくされたのだ。
 6月3日、ブランコは、西武戦を右手の故障で欠場する。私は、ブランコが登録抹消された6月4日の西武戦をナゴヤドームで見た。この試合は、平田のサヨナラ本塁打で勝利を収めたのだが、谷繁が左ひざを負傷退場した試合でもあり、素直に喜んではいられなかった。
 案の定、攻守の要である四番と正捕手を欠いたチームは、交流戦こそ持ちこたえたものの、7月に失速する。7月10日から8月1日まで3勝13敗1分と負けが込み、首位ヤクルトと10ゲーム差の4位に転落し、8月5日には5位となった。

 ここで、多くの中日ファンは、リーグ優勝をあきらめていたにちがいない。私も、今年はさすがにリーグ優勝は無理で、何とかAクラスに入るのが精いっぱいではないか、と予測した。私の周囲の人々も、同じ意見だった。
 しかし、ペナントレースは、長い。ペナントレースをトータルで考える落合監督の戦略は、ファンの考える目前の勝利の遥かに先を行っていたのである。
 8月2日、借金5で首位ヤクルトと最大10ゲーム差をつけられた日の試合後、落合監督は、チーム状況を船の修理に例えてコメントする。
「見ての通り。最低5試合はかかってくるな。ドックから出てくるまで」(中日新聞2011.10.22)
 まるで他人事のようなこの発言は、心ないファンの反発を招いた。しかし、泰然自若とした落合監督のコメントの裏には、10年ぶりの優勝を目指して飛ばしに飛ばすヤクルトの疲れと、巨大戦力を保持しながらヤクルトとの差を詰められない巨人・阪神の状態を分析しながら、しっかりと連覇への布石を整えていた自信が見える。
 落合監督は、この年の勝負となる時期について、常々「9月」と明言していた。
 首位に10ゲーム差をつけられても、5位に転落しても、連覇を確信する余裕のコメントを残す落合監督の真価が8月後半からついに発揮されることになる。

                       (続く)




(2011年12月作成)

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