古巣を失う不遇からの再起
 〜楽天 中村紀洋の挑戦〜


犬山 翔太
 
 野球は、中村紀洋に一体どれだけ試練を与えるのだろうか。
 2004年、近鉄は、球団合併に巻き込まれて球団自体がなくなってしまった。近鉄の看板選手だった中村は、夢だった大リーグ挑戦を果たすため、ポスティング制度によってドジャースとマイナー契約を結び、海を渡る。
 しかし、中村は、大リーグに昇格するものの、ほとんど出場機会に恵まれないままマイナーへ降格となり、3Aでプレーしてシーズンを終える。マイナー契約であったことが中村の活躍の場を制限したのである。
 
 帰国した中村は、2006年、球団合併時に所属するはずだったオリックス・バファローズと契約を結ぶ。だが、オリックスでは故障に苦しみ、シーズン終盤を棒に振って、その年のオフには規則の限度を超える減俸を突き付けられて退団する羽目となる。古巣の近鉄が存在していれば、このような大減俸は、ありえなかっただろうが、中村の功績による恩恵を受けたフロントがいないオリックスでは中村は、単に不調だった外様選手の1人でしかなかったのだ。
 2009年に福盛和男が大リーグのレンジャースを解雇となった後、古巣の楽天が手を差し伸べてスムーズに復帰することができたが、これは、福盛が楽天の守護神として貢献してきた実績を認めてくれる人々がいたためである。

 一向に獲得球団が現れない中で中村は、1人で2007年春季キャンプに突入する。その後、ようやくにして打撃の恩師と慕う落合博満監督から声をかけられる。落合は、当初、中村の獲得に前向きではなかったが、プロ野球界が才能ある選手から野球を奪おうとしていることを見かねて、獲得に動いたのである。それによって、瀬戸際で中村は、2007年の野球浪人を逃れる。
 とはいえ、中村は、支配下選手でもない育成選手からの再出発であり、年俸はわずか400万円だった。
 そんな窮地の環境から中村は、中日で復活を遂げる。広角に打ち分けるバッティングと勝負強さでシーズン終盤には中軸として活躍を見せ、チームを日本一に導いて日本シリーズMVPという栄冠を手にしたのである。

 私は、中村が中日で日本シリーズMVPに輝いたとき、中村は、中日で2000本安打を達成して現役を全うするものだと確信していた。おそらく、当時の中村も、そのつもりだったにちがいない。
 しかし、守備に重点を置く中日は、腰を痛めて守備の動きに不安のある中村を1塁に回す方針を打ち出した。2008年は、3位に沈んだ中日にとって、新たなチーム作りは不可欠となっていたのだ。そして、複数年契約を希望する中村に対して、中日は、1年契約で押し通した。年齢、故障の状況から考えると、球団の言い分も仕方のないことではあった。
 中村は、悩んだ末、FA宣言に踏み切り、3塁手確約、2年契約という好条件を揃えてきた楽天との契約を決める。中日も、温かく送り出し、中村の前途は再び開けてきた。

 この契約によって、中村は、さらなる飛躍を遂げるかと思われたが、2009年は、シーズン開幕当初から不振に苦しむのである。
 中村紀は、その華やかで豪快なプレーからは想像できないほど、故障に苦しんできた選手である。
 左手首や右膝の故障、そして、腰痛に苦しめられ、2009年には移籍1年目の重圧もあって、6月も終わろうとしているのに2割そこそこの低打率に苦しみ、本塁打に至ってはまだ1本である。

 6月9日には腰痛から来る不振のため、一軍登録を抹消。治療をしながらイースタンリーグの試合に出場し、2試合で5打数3安打の成績を残して再び1軍に復帰したのは6月26日のオリックス戦だった。しかし、その試合では3打数無安打2三振。相手投手がよかったこともあって、中村は、再び窮地に追い込まれた。

 しかし、見方を変えれば、中村は、まだ幸運であったのかもしれない。中日では、中村に代わる3塁手となった森野は、3番打者として勝負強い打撃と広い守備範囲でまずまずの活躍を見せている。また、中日が獲得した若い新外国人選手ブランコは、1塁手として頭角を現し、観客の度肝を抜く大本塁打を量産して、すっかりチームの主砲に居座ってしまったのである。仮に中村が中日に残っていたとしたら、出番を失っていた可能性は限りなく高い。

 楽天で2軍調整を強いられた中村にとって、6月27日のオリックス戦が中村にとっては正念場となる試合だった。私は、中村を応援するためだけに京セラドーム大阪に向かい、その試合を観戦した。
 試合は、序盤から荒れる。1回裏に楽天の先発永井怜が簡単に1失点すると、2回裏にも2ラン本塁打を浴びて2失点を喫する。さらにオリックスは、勢いに乗って積極的な攻撃をしかけ、山崎浩司の打球は、痛烈に3塁線を襲った。
 しかし、この試合で3塁を守っていた中村がダイビングキャッチを試み、アウトにした。これにより、抜ければオリックスのワンサイドゲームとなりそうな流れを食い止めたのである。
 3回表には楽天も2点を返し、2−3とする。それでも、オリックスは、不調の永井を攻め立て、1点を追加して永井をKOするのである。

 2−4と劣勢の戦いでありながら、楽天は、粘り強い打撃でオリックス先発の山本省吾に多くの球数を投げさせていた。楽天は、6回表に疲れの見える山本を攻め立て、1死1、2塁のチャンスをつかむ。ここで打席には中村。中村は、打席で粘りを見せて、ぼてぼての三塁ゴロながら必死に走って野選を生み、1死満塁のチャンスに広げて山本をKOする。
 代わって登板した大久保勝信は、もはや楽天に傾いた流れを止めることができず、憲史の犠牲フライと鉄平のタイムリーヒットにより、4−4の同点となるのである。
 楽天は、自らに傾いた流れを渡さず、次の7回表には中村のライト前ヒットを含む打者8人の猛攻で5点を奪い、試合を決めるのである。
 中村は、派手な打撃こそなかったものの、攻守に渋い働きを見せて勝利に貢献した。中村にとっては、楽天で2度目のスタートを切ったのである。

 浮沈を繰り返してきた中村にとって、楽天が現役を全うする球団となるかどうかは誰にも分からない。2010年まで契約はあるが、その後は予測がつかないからだ。
 中村がこのような渡り鳥のような野球人生を送るようになった根源には近鉄の消滅がある。近鉄で5年連続30本塁打以上を記録して球団に貢献した中村も、その功績を評価してくれる球団はもはや存在していない。すべての球団で外様という位置付けになるからだ。そのため、新人のように1年1年の実績がすべてとなる。そのような中村の境遇は、根なし草と評されることもあるが、中村にとって中日での2年間は、それがプラスに働いて好結果を生んだ。

 近鉄消滅後、常に追い込まれた状態でプレーする中村は、実績を正当に評価する球団こそないものの、行く先々で多くのファンを生んだ。
 近鉄のファン、オリックスのファン、中日のファン、楽天のファン、そして中村個人のファン。私が京セラドームで観戦したとき、中村への歓声はひときわ大きかった。驚いたのは、年配の人々の熱狂的な声援ぶりで、中村の守備練習のときから、大声で声援を送っていた。中村は、照れを隠しながら軽く手を振り返して応える。
 そうした中でも、私の心に響いたのは、中村が試合で打席に立ったとき、内野のネットに張り付いて初老の男性が叫んだ一言である。
「大阪ドームは、お前の球場だ!」
 そうだ。中村は、この球場に訪れる人々から最も愛されている選手なのだ。既に大阪ドームという名前ではなく、京セラドーム大阪となっているが、中村が打席に立ったときだけは大阪ドームという名前が良く似合う。
 大阪のファンには、2001年にリーグ優勝へ大きく前進した大阪ドームでの本塁打が脳裏に焼き付いている。中村は、5−6と劣勢だった9回裏2死で松坂大輔から右中間スタンドに劇的なサヨナラ2ラン本塁打を放ち、西武の優勝の望みを消すとともにマジック1としてほぼ優勝を決定づけたのである。 大阪のファンは、中村が打席に立つ度、あの豪快な本塁打を思い起こし、再現を期待する。その声援が中村を後押ししする。
 たとえ、各球団から正当な評価を受けずとも、中村のプレーが魅了した多くのファンの正当な評価によって、中村の人気は浸透していく。そして、中村の苦しい境遇は、長引く不況の中、同じような境遇に苦しむ人々に前進する力を与えてくれる。近鉄と中日を優勝に導いた中村が、今度は楽天を優勝に導くことができるか。様々なファンの期待を乗せて、走り続ける中村のプレーは、一見の価値がある。




(2009年7月作成)

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