偉大なる先駆者の金字塔 〜野茂英雄の日米通算200勝〜

山犬
 
 1.史上最多の8球団1位指名

 ドラフト会議がつまらなくなって久しい。一巡目と二巡目の指名選手がほとんど事前にわかってしまうからだ。固唾を飲んで見守る緊張感が消えた。
 それゆえ、ここ10年で記憶に深く残るようなドラフト会議はどの年?と聞かれても僕は答えに詰まるだろう。逆指名制度が始まるまでのドラフト会議とは、刺激があって衝撃があってスリルも味わえた。それは、江川卓の「空白の1日」であったし、清原和博の絶句であったし、小池秀郎の拒絶でもあった。
 その中で、一つだけ最も記憶に残るドラフト会議を選ぶとしたら僕は、野茂英雄が指名された1988年と答える。

 僕が野茂英雄を知ったのは、1988年のドラフト前にスポーツ紙の一面を飾った写真からだった。右足一本で立ちながら上半身をセンター方向にねじり、ホームへは尻を向けている。それまで漫画でも見たことのないフォームから150キロを超える剛速球と鋭いフォークを投げ込む。そんな投手にプロ野球の全球団が注目をしていたからだ。

 野茂は、社会人野球の新日鉄堺に入るまで全く無名の選手だった。高校時代の野茂を知る野球ファンは皆無に近い。野茂が全国に名を知られるようになったのはおそらくドラフトが最初と言ってもいいだろう。ソウル五輪や都市対抗野球にも出場してはいたが、野茂という名前が大きく取り扱われるようなことはなかったからだ。
 だが、ドラフトを前にして日に日に特異なフォームへ注目が集まり、ドラフト会議は「第1回選択希望選手 野茂英雄 投手 21歳 新日鉄堺」のリフレインに終始した。画面は、ダブルスコアのオセロのようだった。
 野茂英雄は、12球団のどこから指名されても入団することを公言していた。拍子抜けするほど球団にこだわりを見せない姿勢は、野茂のその後のメジャー挑戦と移籍生活を暗示していると言ってもいい。
 抽選で当たりくじを引けば確実に入団してもらえるだけに、プロ8球団が野茂英雄を1位指名で競合した。まさに前代未聞の騒動である。かといって、その年のドラフトに野茂以外の逸材がいないわけではなかった。上位には古田敦也、佐々木主浩、佐々岡真司、小宮山悟、与田剛、潮崎哲也、下位にも前田智徳、新庄剛志ら、その後のプロ野球を背負って立つ名選手が多く存在した。
 それでも、ここまで野茂が突出した評価を得たところに、野茂の実力を垣間見ることができる。

 8球団の代表が球団の命運を賭けた異様な抽選で野茂を引き当てたのは、近鉄だった。引き当てたというより、抽選で最後に残った1通を手にした近鉄・仰木彬監督の封筒が当たりくじだったのだ。
 今にして思えば、野茂が仰木彬の手に渡ったということは世界の野球界にとって強運だったと言う他ない。

  2.衝撃の投球


 野茂は、入団前から自らのフォームを変えられるのを拒んでいた。もし、伝統ある人気球団や管理野球の厳しい球団に入っていたらその拒絶は、いとも簡単に覆されていたにちがいない。極端に全身をねじり、その大きな反動を利用して剛速球を生むフォームは、コントロールが定まりにくいという欠点を持っていた。しかも、相当に下半身が頑丈でなければ故障を誘発しがちなフォームでもある。
 野茂は、人並み以上の走り込みで頑丈な下半身を持ち、故障の心配は少なかったが、それでも四球の多さは有名だった。四球の多さを克服するためには、オーソドックスなフォームに変更するのが一番の近道となる。しかし、そうすれば、剛速球とフォークボールの威力は半減し、打者がタイミングをとりづらいといった利点すら消えてしまう。

 結果から言えば、仰木彬の決断は、正しかった。野茂の希望通り、フォームを一切いじらなかったからだ。のちにイチローの振り子打法を容認し、大打者に飛躍させた仰木は、選手の持つ個性を最大限に伸ばす方法を常に選択する監督だった。仰木は、開幕当初から先発で起用し、負けが先行してもごく普通に起用し続けた。その年のシーズン成績は、18勝8敗、防御率2.91、287奪三振で最多勝、最優秀防御率、最多奪三振、最高勝率、とタイトルを総なめにする。もちろん、シーズンMVP、新人王、ベストナイン、沢村賞にも選出され、その年のパリーグは野茂一色となった。

 野茂があのフォームで成功するなんてことは、多くの人々が半信半疑で見守っていたはずだ。実際、野茂がプロ入団1年目の最初に負けが先行して行ったとき、マスコミはことさらその事実を大きく報道していたものだ。
 野茂は、1年目の当初こそ負けが先行したものの、すぐに本来の調子を取り戻し、勝ち星を伸ばして行く。僕が野茂の投球を見たのはその年のオールスターが最初だった。近鉄の試合は、なかなかテレビ中継で見られない。普段は、ニュースで投球のごく一部分が見られる程度だ。
 僕は、オールスターのテレビ中継で目を疑うほどの衝撃を受けた。撃ち下ろした弾丸の如く一直線に低めに構えられたミットへ突き刺さって行く剛速球と驚くほど落ちるフォークボール。そのどちらも、まるで空想の中でしか起き得ないようなボールだった。こんな球を常に投げられていたらいくらプロといえども打ち崩せるはずがなかった。
 試合では落合博満にこそ本塁打を浴びたが、それは球宴前に野茂の印象を聞かれた落合が「フォークばかり投げてオジンくさいピッチャーだね」と発言したのを受けて、剛速球一辺倒の力勝負を挑んだからだ。フォークボールを投げていれば打ち取っていたはずである。
 とにかく野茂という存在は、プロ野球界の中でも際立っていた。1994年に故障するまでは。

 野茂は1990年から1993年まで4年連続最多勝、4年連続最多奪三振というとてつもない記録を残していた。
 しかし、1994年夏、野茂は、右肩を痛めてしまう。監督は、1993年に仰木彬から鈴木啓示に代わっていた。野茂に自由奔放に調整させていた仰木とは異なり、鈴木は、不調の野茂に試合で過度な球数を投げさせたり、毎日の投げ込みを強要したりしたという。
 野茂は、右肩を痛めたまま終えたその年のオフ、大きな賭けに出る。
 近鉄に複数年契約と代理人制度を要求し、それが認めてもらえなければ近鉄を出て大リーグへ挑戦する。そんな決意をしたのだ。


 3. 日本以上のトルネード旋風

 近鉄は、野茂が要求する複数年契約を認めなかった。野茂が選んだ道は、近鉄で任意引退しての大リーグ挑戦だった。野茂は、大リーグ挑戦に失敗して日本球界に戻ってくるときには必ず近鉄に戻ってこなければならないことになったが、野茂は大リーグへ行ったまま戻る必要はなくなり、戻り先になるはずの近鉄は既になくなってしまった。
 その皮肉な一連の流れは、独創性の才能豊かな者が生き残り、旧来の方式を守ろうとする者が消えて行くという歴史の一つの象徴と言えるかもしれない。
 野茂は、近鉄と喧嘩別れし、日本球界の任意引退選手として、大リーグ挑戦のルーキーになった。しかも、扱いはマイナーであり、日本のマスコミやプロ野球ファンからは一斉に叩かれた。

 当時、日本人のほとんどが「日本人選手がアメリカ大リーグで通用するはずがない」という幻覚にとらわれていた。それは、大リーグファンの外国人や来日する外国人選手が日本野球を見下した発言をするのを真に受けていたからでもあり、日本野球史上最高の投手との呼び声が高い江夏豊が現役晩年に大リーグへ挑戦しながら夢破れていたからでもある。確かにシーズンオフにしばしば開催される日米野球ではアメリカ人のパワーとスピードに日本人が翻弄されているイメージがあった。日本が大リーグに勝っても「大リーガーはシーズンオフに遊び半分でやってるだけだから」というアメリカ人の言い訳を信じきっていた節がある。逆に言えば、日本も、苦しいペナントレースが終わったシーズンオフで気楽にやれる、という面はすっかり見逃されていた。
 そんな時代背景だったから、野茂は、日本プロ野球への反逆児であり、我儘な身のほど知らずであり、育ててくれた近鉄への裏切り者でもあった。閉鎖性が高く、終身雇用と縦関係が崇拝されていた当時の日本社会で、野茂の言動は明らかに大きな逸脱を意味していた。
 
 大リーグに渡った野茂は、日本人からの冷たい視線とアメリカ人の好奇の視線を受けながら、自らの道を開拓していく。オフの間にほぼ右肩が完治していた野茂は、マイナーで好投し、メジャーの舞台に足を踏み入れる。
 そして、トルネード旋風を巻き起こすのだ。5月にメジャー初登板を果たした野茂は、6月になると本領を発揮して勝ち始める。「NOMOマニア」と呼ばれる熱狂的なファンが球場に押し寄せ、8月にはオールスターゲームのメンバーに選ばれた。シーズンが終わったときには13勝6敗、防御率2.54、奪三振236という素晴らしい成績が残っていた。これは、シーズン当初がストライキで試合数が減っていたことを考慮に入れると、さらに価値は上がる。
 野茂は、最多奪三振のタイトルを獲得し、ナショナルリーグの新人王にも選出される。
 野茂がメジャーデビューを果たして好投し始めてからというもの、日本のマスコミもプロ野球ファンも、野茂の勇気ある挑戦をこぞって賞賛し始めた。まるで戦前の日本と戦後の日本を見るような日本人の豹変ぶりは、またしても外国人を不可解がらせることになったが、閉鎖性の高い日本社会では黒船襲来以降、このようなことは往々にして起こっていることである。
 野茂は、日本人に大リーグという未知の大きな世界を見る目を開かせた。その功績は、鎖国から脱却して新しい日本を作った幕末の偉人たちに匹敵すると言っても過言ではないのだ。

 イチローと新庄剛志が大リーグに挑戦した2001年、テレビ番組でどちらの選手を応援したいか、と聞かれた小泉純一郎首相はどちらにも活躍してほしいという趣旨の答えをした後「でも、わたしは、野茂が好きなんだ」と答えた。その答えが意味するものは、目の前の話題だけを取り上げるメディアへの強烈な批判と、時代の先駆者野茂への多大なる敬意だった。
 野茂の果敢な挑戦がなければ、佐々木主浩やイチローや松井秀喜がこんなに早く大リーグに挑戦するなんてことはほぼ100%に近い確率でなかった。特に松井秀喜は、一生涯、巨人の松井秀喜で終わらざるをえなかっただろう。


 4.革命がもらたした日米通算200勝

 2005年6月15日、この年からデビルデイズに在籍する野茂は、ブルワーズ戦に先発して7回を2失点に抑え、5−3で勝利投手となって日米通算200勝を達成した。
 試合後、グラウンドに出てファンに笑顔で応えた野茂だったが、試合後のコメントはいつも通りそっけないものだった。
「目標を持ってないというか、区切りとなる目標はないので……」
 野茂は、通算200勝に対して大きなこわだりを持っていない。タイトルに関してもこれまでこだわりのコメントを発表したことがない。野茂のコメントは、チームの勝利とその先にある優勝に向けてのものばかりと言っても過言ではない。
 野茂は、多くを語らない。語ることによって野球や自らの投球を脚色づけようとすることを嫌っているともとれるし、何かを語ることによって様々な誤解を生んでしまうことを熟知しているともとれる。
 しかし、それよりも野茂が言いたいのは、自らのプレー、そして生き様を見ることによって、すべてを感じとってくれ、ということではないだろうか。
 高度な技能を持つ職人たちは、自らの有り余る才能を語りたがらない。それは、語って語り尽くせるものではなく、また人々に理解してもらえるまでに至ることがまずないからだ。
 野茂の名前が広く認知されたのは、8球団から指名という事実の後であったし、その実力に驚嘆を浴びたのはタイトルを総なめにする勢いを見せ始めてからであり、野茂のメジャーリーグ挑戦が評価されたのも、野茂がメジャーリーグで勝ち星を積み重ね始めてからである。
 野茂は、「あのフォームじゃプロで大成しないだろう」とか「一旦、肩を痛めたのにメジャーリーグで成功するわけがない」という誤った評価で語られた場所から常に出発を余儀なくされた。
 革命が古い常識を打破するものであるとするならば、野茂が日米で起こしたトルネード旋風は、確かに革命と呼ぶに足りる。
 そして、故障して解雇という憂き目に遭う度、「もう野茂は終わり」「日本球界復帰か」と騒ぎ立てる周囲をあざ笑うかのようにメジャーで復活を遂げる野茂の不死鳥ぶりは、野球界だけじゃなく、すべての分野で苦闘する人々に勇気を与えてくれる。

 今回の日米通算200勝で、日本の名球会入りへの基準を満たしたが、野茂は、名球会入りを保留した。野茂にとっては、好きな野球に没頭していたいのであり、それ以外のことはどうでもいいのだ。まだまだシーズンの途中なのだから野球の邪魔をしないでくれ、といった感じで、名球会にも興味を示さない。目の前の試合に万全の調整をして先発し、自らの最大限の力を発揮して勝ち、チームを優勝に導いて行く。あくまで野球選手としての姿勢を崩さない強い意志が革命を生むのだ。
 将来、野茂は、日本とアメリカの双方で野球殿堂入りが検討されることだろう。日米双方で卓越した実績を残したことや日米の距離を縮める先駆者となったことを考えれば、殿堂入りは当然のことである。だが、そのとき、野茂は、おそらくこんなふうに答えるのではないかと、僕は、ひそかに予測している。
「特に殿堂入りを目標にやってきたわけでもないので……」



(2005年6月作成)

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