スポーツがくれたもの 〜全日本大学駅伝から〜
山犬
 請われているわけでもない。お金をもらっているわけでもない。なのに、自らの意志でそのスポーツを見るために足を運んでいる。まるで中毒にでもなったかのように。
 スポーツにおける「観客」を端的に言い表すならそうなるのではないだろうか。
 あの落合博満は、アマチュア時代、野球と長嶋茂雄というスターの魅力にとりつかれ、会社を休んでまで彼の引退試合に駆けつけたという。彼もまた、スポーツの魅力にとりつかれた1人の観客から始まったのだ。
 誰しも、最初は観客から始まる。とてつもない記録を打ち立ててしまう選手だって最初は全く名もなき観客なのだ。
 選手たちにあこがれ、競技そのものにあこがれ、彼らは、その競技で頂点に立つことを夢見る。
 そうやって競技に心血を注ぐ姿は、限りなく美しい。

 なぜ僕がこのような話をし始めたかと言えば、全日本大学駅伝をこの目で見たからだ。
 毎年秋から冬に足を踏み入れようとする時期に、全日本大学駅伝という伝統ある大会が行われている。熱田神宮から伊勢神宮までの106.8キロというマラソンを2倍以上した距離を8人でたすきをつないで走るのだ。しかも、大学日本一を決める駅伝である。箱根駅伝の方が知名度は高いようだけど、そちらは関東中心であり、全国大会と呼ぶにふさわしいのは全日本大学駅伝の方だという。
 2002年11月3日に行われた大会を僕は沿道で応援した。
 僕は、今年1月に転居したおかげで、選手たちが走っていく旧国道が歩いてすぐのところにあった。転居がなければ、僕は、そのままずっと駅伝に触れることなく過ごして行ったかもしれない。実際、今までは生で観戦するのはほとんど野球と決まっていた。
 そういう意味で、環境を変えることは大切だ。
 朝からテレビで観戦していた僕は、旧国道を車のような速さで南へ向かって走ってくる選手たちを応援しながら待った。
 映像を見ていると、どこを走っているか手に取るように分かる。僕にとっては何百回、何千回と通っている道でもあるからだ。大学日本一を目指す一流の選手たちがそこを走っている。
 いつのまにか僕は、彼らに親近感を抱いていた。その土地に暮らす人々と選手との一体感はそういうところからも生まれてきているのだろうか。市民体育大会に近いものがあるかもしれない。
 外に出るのは、選手たちが隣の町を出ようとしている頃にした。あとどれくらいで僕の住んでいるところを通り抜けていくかが大体予想してみる。それだけでなぜか胸が躍り始める。
 外に出て驚いたのが、沿道で応援する人々の数だった。僕が想像していたよりもはるかに多かったからだ。肌寒い気候の中、至るところに観客が列を作っている。それは、マラソンの世界大会に匹敵するのではないかとさえ思える。
 毎年必ず沿道で応援しているという年配の女性が僕に観戦の仕方を教えてくれた。
「上にテレビ局のヘリコプターが見えてきたら、トップの選手がその下を走っているということが分かるのよ」
 そういう見方は、沿道で応援する者だけしか実感できない。

 普段は何の感情も持たない車が走り抜けていくだけの単調な道路を選手たちは美しく走り抜けていく。トップの駒澤大学の松下の力強い走りとそれを追う山梨学院大学の留学生モカンバの大きなストライドを生かした軽い走り……。
 栄光を目指す者の輝きがそこにはあった。それは、言うまでもなく、僕たちが失いかけているものだ。いや、もう既に失ったと思い込んでしまっているものかもしれない。
 彼らが伝えたがっているものは何だろうか。と僕は考えてみる。
 暖房の効いた車がある時代。少し前まではバカンスを楽しむ人々の群れが排気ガスを撒き散らしながら走り続けていた。
 そういう人々には決して成しえないことをランナーたちがやっていることは確かだ。彼らは全国的にもトップレベルにいる選手たちである。それに対して、何の関心も抱くことなくさっきまで走っていた車たちの大半は、ごくごく平凡にその日その日を過ごしているだけに過ぎない。さっきまでは単なる日常でありながら、突然異質な空間が割り込んできた緊張感。
 僕は、そこに横たわる大きな格差を感じ取ろうとする。
 一つのものに打ち込み、ひたすらそれを達成しようとする者から、既にそれをあきらめてただ安穏に埋もれてしまった者への警告。僕が感じる格差は両極ではないだろうか。
 そうだ。彼らが僕たちに言おうとしていることは、その一瞬一瞬に全力で何事かを成し遂げようとすることの大切さだ。決して最後まであきらめようとしない覇気だ。
 僕たちは、その勇気に心打たれて、こうやって沿道に駆けつけているのではないか。
「今年も駒大がトップだね。でも、山梨は留学生が2人もいるでしょ?」
 そうやって僕に話しかけてくる年配の女性。話をしなければ、僕がその女性とスポーツを結びつけることは不可能だろう。でも、不可能を可能にするかのようにスポーツは多くの人々の心へ結びついていく。
 沿道の観客たちのことで、その数以外に僕が驚いたことがある。それは、この寒さにも関わらず、最後のランナーが通り過ぎていくまで誰一人帰ろうとしなかったことだ。
 僕は、正直なところを言うと、シード権の6位争いまで見たら帰ろうと思っていた。しかし、人々は、6位争いをする早稲田大学と中央大学の選手たちが走り去って行っても一向に帰ろうとしない。
 それどころか、そのうちの1人は、寒そうにしている僕にこう教えてくれた。
「最後は、ある程度まとまって来るからね」
 僕は、その意味がよく分からなかった。
 しかし、確かに最後の集団は団子状態だった。下位のチームは、実力伯仲なのだろうか。
 そのときは、そう考えていたけど、後から考えてみたらありえない話だ。
 僕は、帰ってから調べてみた。
 すると、ランナーたちが極めて過酷なルールの中で戦っていることが分かってきた。彼らは、タイムリミットまでにたすきをつなげなければ、自動的に前のランナーが来なくてもスタートしなければならないのだ。
 つまり、最後にまとまって走ってきた集団は、たすきをつないでもらえなかったランナーたちなのだ。
 彼らは、そんな屈辱に震えながら、それでも最後まで全力で戦い続けるのだ。
 最後まで見届けなければ、見たうちに入らないな。僕は、途中で帰ろうとしていたことを後悔した。
 テレビではない観戦の良さは意外とそういうところにあるのかもしれない。実際、テレビは1位争いとシード権争いを中心に放送し、最後のランナーがゴールする前に中継は終わってしまった。
 スポーツライターの山際淳司は、『そして今夜もエースが笑う』という作品の中でこのように書いている。
「当たって砕けなければ手に入らないものもある。敗北の哀しみ、苦さからしか得られないものがある。勝ち続けることは楽しいことだけれど、それではまだ世界の半分しか見たことにならない」
 駅伝の選手たちは、いくつものレースを重ねるたびに勝つ喜びと負ける苦さを知っていく。もちろん勝ち続ける者たちもいれば、負け続ける者たちもいるだろう。
 だが、勝っても負けてもスポーツは平等に人々へかけがえのないものを与えてくれる。与えられるのは選手ばかりではない。声援を送る観客にだってかけがえのないものを与えてくれるのだ。それに名前があるとしたら感動というやつだろう。
 プロ野球の試合には毎試合数万人の観客が集まる。その観客も、選手たちも、無意識のうちにその試合によって与えられるかけがえのないものを感じ取っている。
 スポーツの魅力とは、そういうところにあるのだと思う。



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