ドラフト5位からの通算200勝
〜山本昌の通算200勝達成試合観戦記〜


犬山 翔太
 
  1.予測しなかった通算200勝達成試合観戦

 しばしば球場での野球観戦に出向いていると、テレビ観戦では味わうことのできない貴重な試合に遭遇することがある。
 私が2008年8月4日の中日×巨人戦チケットを購入したのは6月21日である。私は、その試合が山本昌の通算200勝をかけた試合になるとは想像もしていなかった。チケット発売日の時点で山本昌は、まだシーズン3勝だったからだ。しかも、約1ヶ月間、勝ち星から遠ざかっていた。
 通算193勝で2008年のシーズンに入った山本昌が通算200勝を達成するには、あと7勝が必要だった。2007年のシーズン2勝という成績や2008年8月で43歳になることを考えれば、1年間に7勝するのは容易ではない。私には2007年の不振が脳裏をよぎり、2008年中の達成は微妙なのではと考え始めていた。

 山本昌がようやくにしてシーズン4勝目を挙げたのは、7月15日である。しかし、ここから山本昌は、本来の調子を取り戻し、登板する毎に勝ち星を重ねて7月27日の阪神戦でシーズン6勝目となる通算199勝目を挙げる。そして、次の登板で通算200勝に挑戦することになったのである。
 私がその試合を観戦することになったのは、単に夏休みの巨人戦だからという理由で、親類の小学生からチケット購入を頼まれたためである。しかも、最初は、8月3日の日曜日を買おうとしたのだが、買えそうになかったのでその場で8月4日のチケット購入に切り替えたのだった。
 おそらくは、8月4日の試合に訪れた人々のほとんどが夏休みの巨人戦だから、という理由で購入したにちがいなかった。

 その試合は、後半戦の開幕2戦目である。2008年シーズン当初の山本昌であれば、ここで投げることは考えられなかった。
 しかし、先発ローテーションの川上憲伸とチェンが北京五輪で抜け、朝倉健太が故障で抜け、小笠原孝は安定感を欠いてオールスター前の先発を飛ばされていた。
 そんなときに調子を上げてきた山本昌が後半戦開幕2戦目の先発に抜擢されたのだ。その8月4日の相手は、前年リーグ優勝を飾った巨人であり、中日球団創設9000試合目となる記念試合でもあった。そして、中日は、負けると貯金が0になるという窮状に陥っていた。どうしても勝たなければならない大事な試合だった。
 思い起こせば、2006年9月16日にノーヒットノーランを達成したときも、2位阪神の驚異的な追い上げの中で、負ければずるずると2位に転落してしまいそうな状況での登板だった。


  2.緊張の試合展開   

 私がナゴヤドームに到着したのは、8月4日の17:00頃である。ドーム前の様子は、いつもと何ら変わりなかった。ドーム内で練習を続ける選手の様子もいつもと変わりなかった。
 それが一変して、騒然とした雰囲気に包まれたのは、先発投手の発表時である。
 場内アナウンスで中日の先発投手が山本昌と発表になると、ひときわ大きな歓声が上がり、盛大な拍手が沸き起こったのである。いつもであれば、一部のファンのメガホンを叩く音だけが目立つ程度なのだが、この日は、やはり事情が違っていた。

 山本昌が一塁側ベンチから先発のマウンドに足を進めると、また歓声と拍手、メガホンの音が響き渡る。異様な雰囲気が球場を支配する。
 山本昌は、そんな雰囲気に飲み込まれたかのように、鈴木尚に3塁線を破られる2塁打を浴び、続いて2塁ゴロと犠牲フライで簡単に1点を失う。
 1回裏を0点で終えた中日の流れは、確かに悪かった。山本昌は、2回も先頭の谷にヒットを浴び、犠打と盗塁で簡単に1死3塁のピンチを招いてしまう。
 打者鶴岡のカウントが2−3になったとき、巨人は、意表を突く作戦に出る。必ずストライクを投げてくると読んで、スクイズを敢行したのだ。しかし、山本昌が投げたのは、内角低めのストライクからボールに外れて行く鋭いカーブだった。山本は、鶴岡から空振り三振を奪い、飛び出した3塁ランナーもアウトにしてピンチを切り抜ける。まさに一気に流れを変える1球だった。

 私は、このとき、試合と山本昌の野球人生を重ね合わせて見始めていた。この日の序盤の出来が、山本昌の若い頃のつまづきを私に連想させたからである。
 山本昌は、日大藤沢高校時代、甲子園大会への出場経験がない。神奈川県内では好投手と言われていたが、全国的には無名だった。神奈川県には当時、大洋とロッテの2球団が存在したが、山本昌をドラフト5位で指名したのは地元ではない愛知県の中日だった。中日の高木時夫スカウトが山本昌の将来性を買って強く推したことと神奈川選抜の一員として社会人チーム相手に好投したことが決め手だったと言われている。
 それにしても、130キロを少し超える程度の直球しか投げられない高校生投手を中日は、よく指名したものである。スカウトが見抜いた潜在能力は、おそらく球団では大した評価を得ていなかった。
 その証拠に山本昌は、入団後2年間は1軍登板なし、3年目と4年目で計4試合登板するも勝ち星なしである。3年目のオフは、星野仙一が監督に就任するが、就任後すぐの秋季キャンプで山本昌を怒鳴ったエピソードは有名である。
「全力で投げろ!」
 それに対して山本昌は、こう答えている。
「これが全力です」
 1988年、整理対象選手になっていた山本昌は、最後のチャンスとしてアメリカのドジャース傘下1Aへの野球留学メンバーに入る。体が大きいからアメリカで指導してもらった方がいい、という星野の極めて単純な発想からだった。

 山本昌は、アメリカで生まれ変わる。スクリューボールをマスターし、アイク生原の指導でコントロールと球の切れを磨き、1Aのオールスターに出場するまでになるのだ。
 そんな山本昌に大リーグからオファーが舞い込んだところで、中日の中山球団社長は、慌てて日本に呼び戻す。そして、1988年8月30日から約1ヶ月間半で5連勝を飾って、5勝0敗、防御率0.55という驚異的な成績でリーグ優勝に貢献する。アメリカ留学から一気に運命の流れを好転させたのである。


  3.流れをつかむ投球術

 自らの投球で悪い流れを断ち切ったすぐ後、2回裏2死からデラロサが左中間スタンドへソロ本塁打を放って1−1に追いつく。
 この試合で最も重要だったのは、3回表の投球だった。山本昌の投球は、1988年に彗星の如く登場した時のように完璧な投球で3者凡退に打ち取る。
 その投球で一気に流れを引き寄せた中日は、3回裏に井端弘和が3塁手手前でイレギュラーする幸運な2塁打で出塁し、中村紀洋が勝ち越しのタイムリー安打を放つ。幸運を確実にものにしたことで、中日へ来た流れはさらに大きな波となった。
 5回裏には井端弘和のソロ本塁打をきっかけに3点を入れて、5−1と大きくリードを奪う。5点目は、相手投手のボークによる得点だった。

 山本昌の直球には強烈なバックスピンがかかっている。150キロ以上を出す投手でもスピンは1秒40回転から45回転の間だが、山本昌は52回転していて打者の手元で驚異的に伸びるというのである。そして、大きな体を生かして、できうる限り前で球を放す技術を持ち、130キロ台の直球は、150キロ台の体感に化ける。
 山本昌は、球速のみで軟投派ととらえられがちだが、実情はそうではないのだ。
 その証拠に、この日、記録した7奪三振のうち、1回のラミレス、3回の鈴木、5回の二岡、7回の二岡から奪った4つの三振は、いずれも決め球が直球である。

 3回から5回まで無安打に抑えた山本昌だが、私が心配したのは6回だった。2007年の山本昌は、5回までは好投しても、6回を持ちこたえられずに負ける、という試合が多かったからである。
 その年の山本は、5月13日の巨人戦で2勝目を挙げて以降、突如として勝てなくなる。打線との巡り合わせが極めて悪かったのが最大の原因なのだが、勝てなくなった山本昌は、好投しても粘り切れずに終盤に失点を重ねて負ける試合が増えて行く。
 9月25日に4回5失点で降板した山本は、1軍登録を外され、シーズンを終える。残った記録は2勝10敗、防御率5.07。1988年に1軍で初勝利を挙げて以降、最悪の成績だった。
 落合博満監督は、その後の山本昌の起用についてこう答えている。
「もう今年は使わないよ。どこで使うの?」
 その発言通り、落合監督は、山本昌をクライマックスシリーズ、日本シリーズで1度も起用しなかった。日本シリーズでの白星、日本一を最大の目標にしてやってきた投手を、である。

 あのとき、ここで山本昌の野球人生が193勝で終わるかもしれない、という懸念したファンは多かったはずだ。
 しかし、落合は、2005年終盤にも不振に陥った山本昌を早々と1軍登録から外し、翌年に向けて調整を行うように指示していた。2007年も、状況は悪化しているとはいえ、その意図が読み取れた。
 事実、落合は、2007年の山本昌をエース川上の次に信頼して起用していたと言っても過言ではない。全19試合の登板中、リーグ優勝した巨人戦の登板が7試合。年間24試合ある巨人戦の約3分の1に登板したことになる。つまりは、3連戦があれば、必ず山本昌が登板してきたことになるのだ。そして、山本昌は、7戦登板して1勝5敗に終わり、中日は1.5ゲーム差で優勝を逃す。
 200勝をかけた登板は、因縁のようにまたしても巨人戦だったのである。

 私の心配をよそに山本昌が6回表の3打者をすべてショートゴロで打ち取ったとき、私には、200勝を一発の挑戦で決めてくれるという確信が芽生えてきた。前年の悪夢さえ振り払ったように見えたからである。


  4.地味な存在が積み重ねた白星

 山本昌の3回から8回までの投球は、ほとんど完璧ではあったが、地味な投球でもあった。特に6回以降は、試合が全く動かなくなって、淡々と流れた。しかし、その地味で淡々とした流れが山本昌のもう一つの持ち味でもあるのだ。

 山本昌は、1988年に頭角を現して以降、チームの看板選手とはなったが、どちらかと言えば地味な存在だった。エースとして脚光を浴びたのは、いつも150キロ近い剛速球を持つ投手、つまりは郭源治、今中慎二、野口茂樹、川上憲伸だった。
 開幕投手は、そのチームのエースと呼ばれる投手なのだが、山本昌は、ちょうど彼らの隙間を埋めるかのように25年間で4度だけしか開幕投手を務めていない。今や伝説となった1994年の10.8決戦では登板すらしていないのである。
 1993年に右鎖骨骨折、1995年に左膝故障と手術をしたものの、いずれも短期間の治療で乗り越えたため、メディアで大きく取り上げられることもなく、ファンから過剰な心配をかけられることもなかった。
 最多勝を3回獲得したとはいえ、チームは3回とも優勝を逃してシーズンMVPになり損ねている。
 FA制度が創設されて大物の移籍が急増し、日本人投手の大リーグ挑戦が増加しても、山本昌にFA移籍や大リーグ挑戦の話題は上がってこなかった。あくまで自らを育ててもらった中日一筋で黙々と投げ続けてきたのだ。

 決して向上心がなかったわけではない。山本昌は、毎年、野球に対して貪欲に取り組み、特に左膝手術の翌年からは、鳥取のワールドウィングで科学的なトレーニングを導入して、ワールドウィングの小山裕史代表とともに故障しない体作りと投球の進化を図っていくのである。
 山本昌と同年代で鮮烈な印象を残した今中慎二は通算91勝、斎藤雅樹は180勝、桑田真澄は173勝、槙原寛己は159勝、西崎幸広は127勝、渡辺久信は125勝、阿波野秀幸は75勝に終わっている。あの野茂英雄でさえ、山本昌より先に引退することになった。
 次々と現役を退いて行く同年代の投手たちをよそに、山本昌は、ローテーションの中心投手として投げ続ける。

 その恵まれた境遇は、すべて彼の淡々として常に前向きな人柄が呼び寄せたものではないかと思えてくる。私が強く記憶に残っているのは、2003年オフに落合監督就任の感想を聞かれた山本昌がテレビのインタビューに答えたコメントである。
「これから、やりやすくなるんじゃないですか」
 独自のやり方で3冠王3度に輝いた一匹狼の監督就任を懸念する声が多い中、山本昌の発言は、あまりにも前向きだった。それがいかに的を射た発言であったか、そこから現在までの山本昌と中日の成績が物語っている。
 当時、通算160勝だった山本昌は、多くの投手が苦労して挫折してきた通算200勝へ残り2割の道のりをわずか4年半で乗り越えたのである。


  5.ついに200勝達成の瞬間

 9回表の山本昌の投球は、球がキャッチャーミットに収まる音やバットに球が当たる音すら観客には聞こえなかった。ライトスタンドだけでなく、球場全体が山本昌に対して1球ごとに声とメガホンで盛大に応援し始めたからである。
 それまでの回も山本昌がランナーを出すと「頑張れ、頑張れ、山本」という声援がこだまして、巨人の応援がかき消される異様な光景はあったのだが、9回表は、隣の人と話をすることもままならない大音量に包まれた。地鳴りのような、という表現がふさわしいほど、私には大声援でドーム全体が揺れているように感じられた。それは、ロックのコンサートのような突き刺さるような音響ではなく、温かく心地よい大音量だった。

 山本昌は、1死から高橋由伸にセンター前へのテキサスヒットを浴びる。しかし、通常であれば明らかなテキサスヒットも、中堅手、遊撃手、二塁手がいずれも全力で追いかけ、もう少しで捕球できるかという状況まで行く。山本昌を盛り立てる必死の攻守は、この試合を通して見られたものだ。
 2死になると、球場全体から「あと1人」コールが止めどなく繰り返される。打席のラミレスも、この雰囲気ではもはや正常な精神状態で打つことなど不可能だろう。2ストライクをとると、今度は「あと1球」コールに変わる。そして、ラミレスの打球はライトに上がる。ライトの中村一が捕球したとき、球場全体に爆発するかのような歓声が上がり、ほとんどすべての観客がスタンディングオベーションで祝福した。

 山本昌は、マウンド上でナインに祝福を受けると、そのまま担ぎ上げられる。胴上げが始まったのだ。大きな体が4度宙に舞う。優勝の胴上げと錯覚するほどの盛り上がりである。
 ヒーローインタビューの最中も、内外野ともにほぼ満席の状態だ。通常であれば、電車の混雑を気にして帰る観客が結構いるのだが、この日はそれがない。
 ヒーローインタビューが終わると、今度は、山本昌が歩いて場内を反時計回りに一周する。200勝達成ボードを掲げたドアラが同伴である。誕生時から山本昌を見守り続けたドアラも、この日の7回裏終了後のバク転は、いつも以上に緊張して、ひねりを加えず高く安全に完璧な成功を収めていた。

 スタンドの熱狂的な声援に両手を振って応える山本昌を見ながら、私は、この試合に巡り会えた偶然に感謝して手を振り返した。
 
 山本昌の通算200勝達成には球団創設9000試合目での勝利という他にも、様々な記録が加わった。42歳11ヶ月での通算200勝達成は、史上最年長であり、完投勝利も史上最年長だった。
 また、通算200勝を挙げた投手の中で、ドラフト4位以下という下位指名の投手は、山本昌と工藤公康だけである。工藤は、ドラフト6位だが、これは、既にプロで活躍し、ドラフトの上位指名候補になっていたが、熊谷組内定を理由にプロ入団拒否を表明していたためである。ドラフト指名後、急転直下の西武入りを果たしている。
 すなわち、実質上、ドラフト下位指名で通算200勝を達成したのは山本昌が初めてと言ってもいい。

 もし、山本昌の今まで歩んだ道で一つでも歯車が狂っていたら、と考えると、想像するのも恐ろしくなる。何せスピードガンが弾き出す数字は、二流投手のものでしかないのだ。
 仮に中日という球団が存在しなければ。アメリカへの野球留学がなかったら。星野仙一が監督でなかったら。ワールドウィングがなかったら。FAで他球団へ移籍していたら。大リーグへ挑戦していたら。
 おそらくは200勝投手となることはできなかったはずである。
 今まで育ててくれたすべての人々に常に感謝しながら、だからこそ中日から離れずに恩を返すために全力を尽くしてきたのだ。山本昌の言動からは、その気持ちが痛いほど伝わってくる。
 自らを高みに導いてくれる人々への感謝、自らのプラスになるものを取り入れる応用力、そして、ストイックに1つのことに没頭できる持続力。 山本昌の通算200勝達成への道のりには、未だ成功の道を歩み切れていない多くの人々に対する生身のメッセージが詰まっている。





(2008年8月作成)

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