大リーグは再生・復活の舞台となりえるのか
 〜桑田真澄の大リーグ挑戦〜


山犬

 
  1.残した栄光よりも夢を選んだ桑田真澄の大リーグ挑戦

 松坂大輔のレッドソックス入りに日本中が沸く中で、私は、桑田真澄の大リーグ挑戦の方が気にかかっている。
 メディアでも度々取り上げられることからして、やはり私と同じように桑田の大リーグ挑戦が気になっている人々は少なからずいるはずである。
「でも、今の状態じゃ、3Aで活躍するのも難しいんじゃないの?」
 私が桑田の話題を出すと、そんな話をしてくる者もいるが、おそらくそれは、多くの人々が懸念していることでもあるだろう。だが、そういう状況を何度も覆してきたのもまた桑田であったことも忘れてはならない。

 松坂大輔、井川慶は、来年から大リーグへ渡るといっても、彼らの場合は、既に移籍という言葉がしっくり来る。松坂は、2006年にシーズン17勝しているし、井川も14勝を挙げている。それに松坂は、2007年に27歳、井川は28歳になる。最も脂の乗り切った年齢と言ってもいいだろう。
 しかし、桑田は、違う。2006年は、5月以降、1軍で起用されなかったこともあり、シーズン1勝に終わり、2007年には39歳になる。
 これは、日本人投手の大リーグ挑戦の中でも最高年齢である。
 
 私は、桑田が巨人退団を巨人のホームページ上で発表したとき、日本の他球団への移籍を考えているものとばかり思っていた。
 確かに桑田が大リーグ移籍願望を持っていることは知っていた。これまで、何度か大リーグ移籍を希望しては、球団から反対されてあきらめてきていたからだ。
 そして、最近では日本で通算200勝を達成した後は、大リーグでプレーする願望を持っていることを明らかにしていた。

 しかし、2003年以降、桑田の成績は低迷する。調子が上がってきた途端、故障を繰り返す不運に見舞われ、少し不調が続くと起用を制限された。野球のリズムを失ってしまった桑田は、2005年に0勝、2006年に1勝という信じ難い結果を残してしまうことになった。
 そして、2006年の夏以降は、故障が回復しても1軍から呼ばれないという事態に陥ったのである。
 シーズン終盤、桑田は、突如として巨人の退団を発表した。
 本来であれば、もはやここで現役生活を終えてもいいはずである。かつて巨人で活躍した大投手のほとんどすべてが巨人で引退という道を選んでいる。

 しかし、桑田は、アメリカでの現役続行という道を選ぶ。私は、以前から桑田の野球に賭ける並々ならぬ情熱と果てない向上心を尊敬してきた。
 それゆえに栄光の巨人軍で引退という花道を敢えて捨ててまで、アメリカで現役生活を継続しようとする反骨精神に再び心ひかれたのである。
 おそらく、それらは、巨人退団の挨拶でファンに語った「心の野球」という言葉に集約することができるだろう。野球を通じて生き抜くための精神力、一途に夢へ走り続ける執念を見せてくれる選手と言えば、私にとって、まず第一に桑田だからである。

 桑田は、常々、プロでの最終目標を通算200勝と公言してきた。そうであるならば、日本の他球団、しかも、先発投手陣が手薄で、入り込める余地のあるチームが理想的だった。たとえば、セリーグなら広島や横浜、パリーグなら楽天やオリックスへ移籍するのが最善であったはずである。
 なのに、桑田が選んだのは、大リーグへの挑戦だった。松坂や井川なら「移籍」と呼べても、桑田の場合は「挑戦」と呼ばざるをえない。
 日本の大投手がこういった形で大リーグへ挑戦することになるのは、おそらく江夏豊以来となるだろう。桑田真澄の挑戦は、江夏のときと同じく、異端と言ってしまっていいのだろうか?


  2.高年齢挑戦を成功させた高津臣吾と斎藤隆

 江夏豊が大リーグへ挑戦したのは、1985年のことだった。1984年には西武に在籍していた江夏のシーズン成績は、1勝2敗8セーブ、防御率3.65だった。これも、前半戦だけの成績で、後半戦は、1軍での登板がなかったから、かなりの好成績と言うこともできるだろう。何せその前年には日本ハムで34セーブを挙げてセーブ王にも輝いているのだ。
 江夏の通算成績を見れば200勝200セーブポイントという、おそらくは不滅の記録を打ち立て、数々のタイトルも獲得した。通常であれば、多くのファン人見守られながら栄光に包まれた引退試合を行うことができたはずである。また、そういう最後であれば、何も思い残すことはなかったはずである。
 しかし、江夏は、日本球界から捨てられるような最後を迎えなければならなかった。一匹狼のように5球団を渡り歩いた男の悲哀でもあろうが、それでも、日本球界は、至宝とも言える江夏に冷たい最後を突きつけてしまったのである。

 江夏は、自らのプライドを賭けて、大リーグへの挑戦を決意する。37歳になるシーズンであったが、江夏は、ブリュワーズの一員としてオープン戦で好投して最後まで大リーグへの切符を争ったが、終盤に調子を崩して大リーグ枠に残ることはできず、潔くユニフォームを脱いだ。
 そのとき、日本国民の多くが日本人選手は大リーグで通用しない、ベテランになってからでは大リーグに上がることもできない、と思い込んでしまった。それは、長く尾を引き、ベテラン選手の大リーグ挑戦は、タブーにさえなり始めた感があった。

 それ以後、打者でも1998年に史上最強のスイッチヒッターだった松永浩美が37歳で大リーグに挑戦したが、夢破れ、2001年には大リーガーに最も近い男と呼ばれたこともある佐々木誠が35歳にして大リーグ入りを目指したが、こちらも夢破れた。打者でも、ベテランであれば、大リーガーになることは困難を極めることを知らしめられたのである。
 そんな中、ようやく風穴を開けたのが、小宮山悟だった。技巧派投手の小宮山は、36歳で大リーグへ挑戦して見事に大リーグ入りを果たしたのだ。小宮山は、2001年に横浜で12勝9敗、防御率3.03の記録を残していた。精密機械と呼ばれるほどのコントロールを持ち、2001年の防御率は、セリーグ4位だったから、セリーグを代表する好投手と言えた。しかし、小宮山は、大リーグ入りを果たしたものの、故障もあって大リーグで勝利を挙げることができず、日本球界に復帰した。
 江夏と小宮山でも挙げられなかった大リーグでの白星を挙げたベテラン挑戦者は、高津臣吾だった。
 2003年にヤクルトのリリーフエースとして2勝3敗34セーブの成績を挙げて最優秀救援投手に輝いた高津は、36歳になるシーズンを迎えた2004年にホワイトソックスでセットアッパーやクローザーとして6勝4敗19セーブという好成績を残したのである。
 それでも、高津の場合、前年に日本で残した成績は突出しており、大リーグでクローザーとして活躍しても驚くほどのことはなかった。

 しかし、2006年、斎藤隆が36歳で大リーグ挑戦を表明したとき、斎藤の成功を予見する声はほとんどなかった。
 1999年には先発で14勝3敗の成績を残し、2001年には7勝1敗27セーブを挙げた斎藤も、先発に回った2003年以降は低迷していたからだ。2004年にはシーズン2勝、2005年にもシーズン3勝を挙げたにすぎなかった。
 しかも、斎藤の契約は、メジャー契約ではなく、ドジャースとのマイナー契約だった。自らの実力で、大リーグへ上がってかなければならない。日本プロ野球界で最近2年間において5勝しか挙げられていない先発投手が大リーグに昇格して活躍できるほど甘くはないだろう。そういった意見が大勢を占めていたわけである。
 しかし、斎藤は、運にも恵まれる。守護神のエリック・ガニエが故障し、入れ替わりで大リーグに昇格すると、中継ぎで好投を続けて、瞬く間に守護神の座を手にしてしまったのである。
 そして、斎藤が残したシーズン成績は、72試合に登板して6勝2敗24セーブ、防御率2.07という驚異的なものとなった。しかも、チームをプレーオフ進出に導き、プレーオフ進出時の胴上げ投手にもなったのである。

 こうした日本人選手の大リーグ挑戦の中で見えてきたものは、成功と失敗が常に背中合わせにあり、ちょっとしたところから最終的な結果が両極端になってしまうということである。
 それは、ベテラン選手に限らず、中堅選手においても同じようなことが言える。イチローや松井秀喜の成功の裏で、紙一重の差で中村紀洋や松井稼頭央のように失敗と呼ばざるをえない結果を残してしまう危険性も孕んでいるのだ。


 3.大リーグは、再生・復活の舞台となりえるのか

 2006年の斎藤隆の好成績は、ベテランの日本人選手に大きな力を与えるものとなったことは間違いない。
 日本で成績が落ち込んでいても、大リーグで見違えるような活躍をすることができるのだという輝かしい前例を作ることになったからである。

 野球というスポーツは、環境や精神的な面が非常に大きく作用するスポーツである。それゆえに、成績の落ち込んでいた選手がトレードによって、また急に活躍を始めたりすることも多い。最近では平井正史や坪井智哉、種田仁、鈴木健、鉄平などが記憶に新しい。
 また、私は、伝説のコラムNO.62で日本で通算1勝の大家友和が大リーグのローテーション投手として活躍していることを取り上げ、「大リーグに憧れる時代は終わった」と述べた。

 確かに世界中から有能な人材が集まってくる大リーグは、日本よりレベルが高いだろうが、日本とは環境も違えば、野球のスタイルも違う。それゆえに、日本で成績が伸び悩んでいても、大リーグで成績が大きく伸びる可能性は充分にあるのだ。
 大リーグは、日本ほど多彩な変化球を操る投手はほとんどいないから、日本人投手には有利な環境だと言われている。確かに村上雅則、野茂英雄、伊良部秀輝、長谷川滋利、吉井理人ら、パイオニアとして大リーグで活躍を見せた日本人は、軒並み投手だった。
 斎藤も、大リーグで活躍する決め手となったのは、日本で培った鋭いスライダーを右打者の外角低めに精密にコントロールできる技術だったと言われる。
 桑田は、そういった投手としての利点をいかにして生かせるかが活躍できるかどうかの鍵を握ることになるだろう。

 ただ、現状の少ない前例の中では、30代後半の挑戦で、ローテーション投手の座を勝ち取った日本人投手はいない。それゆえに、世間が異端視するのはやむをえないのかもしれない。だが、桑田には、打者の心理を読む投球術や鋭いカーブ、精密なコントロール、卓越した守備力がある。
 そういった利点を生かして、どこまで大リーグで勝ち星を積み重ねられるかが今後の日本人選手の大リーグに対する考え方に大きな影響を及ぼすことになるにちがいない。
 かつて、日本で好投手として数々の記録を残した郭源治や渡辺久信は、現役晩年を台湾野球で最後のひと花を咲かせた。それは、日本よりレベルが落ちる国での活躍だった。しかし、今後は、同等、あるいはそれ以上と言える大リーグで最後のひと花を咲かせることも可能な時代になってきたのではないか。
 かつて、海外へ移籍した野茂英雄やサッカーの三浦知良は、当時は異端視されていても、現在の基準では標準でしかない。
 桑田が活躍するということは、それを遥かに進めて日本で思うように成績を残せなかった選手たちの受け皿としての大リーグという変革をもたらす可能性が充分にある。
 大リーグが日本人選手の再生・復活の舞台となりえるはずだと信じて、私は、桑田の大リーグ挑戦を応援している。



(2006年12月作成)

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