ローテーション世代初の通算200勝   〜工藤公康、年齢の限界への挑戦〜

山犬
 
   1.23年間で積み重ねた大記録

 オリンピックが始まると、日本は、オリンピック一色に染まる。4年に1度の祭典なのだから当然といえば当然のことなのだが、アテネオリンピックは、史上稀に見る日本のメダルラッシュが続いた。普段は愛国心と無縁の生活を送り、柔道や競泳なんかに全く興味を持ってない者でさえ、このときだけは思わず引き寄せられてしまう。
 4年間、金メダルに照準を合わせて調整してきた世界トップレベルの選手達の戦いは、一瞬たりとも目が離せない迫力がある。かつて「オリンピックで金メダルが確実にとれる、と言われたら筋肉増強剤に手を出すのも惜しくない」と語った選手がいたように、オリンピックの魅力は他のどの大会よりも卓越している。
 しかし、その一方で、オリンピック期間に日本国内で行われているスポーツは、日陰に追いやられてしまう。
 アテネオリンピック期間のさなか、日本国内では4年どころか23年間を費やして、とてつもないことをやってのけたプロ野球選手がいる。
 工藤公康である。
 2004年8月17日、工藤は、そのシーズンの9勝目をかけてヤクルト戦に先発した。既に41歳3ヶ月になるのだが、先発の柱として投げている。「既に」と言うと失礼にあたるのかもしれない。少なくとも本人は「まだ」41歳と思っているはずだ。
 工藤の球威は、衰えを知らない。完璧なまでに自己管理が行き届いたコンディション作りによって、今でも140キロ台半ばのストレートを投げることができる。
 これは、ランディ・ジョンソンやロジャー・クレメンスに匹敵するほどの衰え知らずだ。
 その日、ヤクルト戦に先発した工藤は、9回を投げきっている。2−2の同点で迎えた7回裏には自ら決勝の2ラン本塁打を放った。9回を2失点でスコアは4−2。完投勝利で挙げたシーズン9勝目は、プロ通算200勝目だった。
 名球会入りの条件ともなっている通算200勝は、過去22人しか達成していない。しかも、1992年7月16日に北別府学が達成して以来、ついに20世紀中に200勝投手は現れなかった。
 もはや北別府がプロ野球最後の200勝投手になるのではないか。そう言われていたほどなのだ。この12年間のうちに斎藤雅樹、星野伸之、佐藤義則、槙原寛己、大野豊ら多くの名投手が道半ばにして引退して行った。
 だからこそ、工藤の記録には高い価値がつく。

 そんな工藤のこれまでの成績を眺めていて、僕はちょっとした驚きを覚えた。工藤は、シーズン最高の勝ち星が16でしかないのである。
 最多勝さえ、一度も獲得していない。16勝が1回、15勝が2回、12勝が2回、11勝が5回、10勝が1回で、残りは1桁勝利となる。
 そう見てみると、200勝達成までに23年間を費やしたのも無理はない。今じゃ、10勝すればエースして扱われる時代だ。1998年のパリーグの最多勝はわずか13勝だった。2000年のダイエーは10勝以上投手なしでリーグ優勝という一昔前ならありえない記録を打ち立てた。
 つまり、20年以上エースとして活躍しなければ、通算200勝は達成できないのだ。


  2.プロ4年目からの飛躍

 1981年11月25日のドラフト会議で工藤は、西武から6位指名される。6位指名と聞くと驚いてしまうが、実はそこまで低く見られていたわけではない。愛知県の名古屋電気高校にいた工藤は、その年の夏、甲子園に出場している。そして、初戦の長崎西高校戦でノーヒットノーランを達成し、三回戦の北陽高校戦では延長12回を21奪三振という快記録を達成する。ドラフトは、上位指名で消えてもおかしくない逸材だった。
 しかし、工藤は、プロ野球入りを希望していたわけではなく、早々と社会人野球の熊谷組入りが内定していた。だから、事前にプロの各球団には指名お断りの通達を出していた。プロの各球団は、工藤が入団してくれる可能性の低さを意識して指名を避けたのだ。
 ところが、それを逆手にとって強行指名に踏み切った球団があった。それが根本陸夫管理部長がいた西武である。西武は、工藤に対して説得を重ね、入団させることに成功する。西武の黄金時代到来は、このとき決まっていたのかもしれない。工藤の西武在籍時代と西武の黄金時代がぴったりと重なるからだ。

 工藤が与えられた背番号は47。プロ野球選手の場合、将来エースを期待されていれば、背番号は10番台を与えられることが多い。将来ローテーション投手としての活躍が見込まれれば、20番台を与えられることが多い。
 工藤は、その20番台からも遠く離れた40番台後半を与えられた。
 40番台を与えられる、ということは、それほど大きな期待をかけられているわけではない。背番号は、大きければ大きいほど、ハンディを背負っていると考えても良い。10番台を最初からつける投手と40番台をもらった投手では、首脳陣の見方さえ大きく違う。目をかけてくれる量すら比べ物にならないだろう。
 だから、僕は、大きな背番号を背負って入団してきた選手が大選手となっていく道のりを見ることが好きだ。あのイチローが背番号51に未だにこだわり続けているのもそういう始まりを忘れたくないからではないだろうか。
 工藤は、1年目から1軍の中継ぎで起用されているが、本当の意味で頭角を現したのは4年目の1985年になる。その頃には、ローテーション制の時代に入っていた。2日連続で先発するなんてことは、よほどのことがない限りありえなかった。
 先発ローテーションの一角を任された投手は、1年に25試合から30試合程度を投げる。全試合に素晴らしい投球をしても20勝が限度で、30勝は不可能だった。


  3.ローテーションの申し子、江川卓

 江川卓は、プロ入団時からローテーションをきっちり守って投げることに徹しようとしたおそらく最初の選手である。江川は、自らの肩や肘が首脳陣による酷使のせいで短期間で壊れてしまうことを極度に恐れていた。江川の頭には、かつて多くの有望な投手たちが投げすぎによって短命な投手生活を送ったことをあまりにも冷静に見ていたからかもしれない。江川の早熟した天才ぶりの最たるものがそこにあると言うこともできる。江川は、アメリカのように、きっちりとした中5日程度の間隔を空けて投げることにより、自らの投手生命を少しでも伸ばそうとしていたのだった。
 それに、江川は、高校卒でプロ入団した投手に比べ、5年間のロスがあった。大学卒業後、1年間の浪人生活を経て巨人へ入団したからだ。だから、23歳でプロ入りしたその最初から、プロで活躍できるのは10年程度だろう、という予測のもとでプレーしようとしていた。
 そのことは、入団何年目かに江川が自らのプロ生活について語った言葉から容易に読み取れる。
「30勝を3年やるより10勝ずつ10年の方が安定した生活を送れるでしょ」
 また、プロに入る前から江川は、自らの投手生命を考えていた、という伝説もいくつか残っている。
 たとえば、大学時代、岡田彰布以外には肩や肘に負担のかかるシュートを投げなかった。たとえば、プロ1年目は、縦に曲がるカーブを使わず、横に曲がるカーブだけを使って様子を見ていた。
 どこまでが真相なのかは分からないが、江川が他の選手とは一線を画して、長期的なビジョンを持って人生設計をしていたことは確かだろう。
 高校時代から怪物の名をほしいままにした江川は、考え方も天才的なほど合理的だった。
 そんな江川のプロ生活は、信じがたいほど短い。投手がエースとして働けるのは10年間と考えていたせいでもあろうが、わずか9年間投げただけだ。それでも、江川は通算135勝を挙げた。引退した年でさえ、13勝を挙げている。
 登板間隔を空け、過剰な投げ込みも行わず節制していた江川も、1982年に肩を痛めた。それまで剛速球を投げておけば、ほとんど打たれることがなかった江川も、100球を超えると球威が落ちることに悩まされ、何とか直球の衰えを隠すために変化球でごまかさねばならなくなった。肩や肘に負担のかかる変化球を投げなければならなくなったことで、きっちり登板間隔をとる必要性が増した。
 剛速球ばかりでなく、天才的な投球術も持ち合わせていた江川は、引退するまでエースとして投げ続けることができた。
 そして、納得のいく直球が全く投げられなくなったとき、江川は、惜しまれながらも引退する道を選んだ。
 プロに入る前から、野球を10年やれば次の仕事へ移らねばならない、と考えていた江川にとって、当然の選択ではあった。だが、やろうと思えば、あと2、3年は充分やれるように周囲には見えたため、江川の引退は、単なる我儘とさえ評されてしまった。
 工藤は、そんな江川の影響を受けた1人と言ってもいいだろう。
 若い頃、工藤は、過度の投げ込みや単調な練習を嫌っていたという。その当時「肩は、消耗品だから」という言葉も残している。
 1987年の日本シリーズで胴上げ時に1人だけ監督へ背を向けて万歳をし、「新人類」と呼ばれた工藤の新しい感性は、ローテーション世代の申し子として長く続けるための秘訣を最も理解していたのである。


  4.年代別勝ち星

 現在のようなローテーション制では、エースとして1年間に10勝ずつしていっても通算200勝に達するには20年を要する。この事実は、通算200勝をほとんど不可能に近い記録にしてしまっている。数年前には「200勝投手は絶滅した」などという過激な言葉さえ聞かれたほどだ。
 工藤のおかげで、ようやくにして絶滅の危機に瀕していた200勝投手が現れたわけだが、中継ぎの役割が益々重視されるようになってきている現状を考えると、これからも200勝投手はそう簡単には出てきそうにない。
 年代別の最多勝数を比較してみても、差は歴然としている。
西暦 セ最多勝利数 パ最多勝利数 西暦 セ最多勝利数 パ最多勝利数
1950 39 26 1960 29 33
1951 28 24 1961 35 42
1952 33 23 1962 30 28
1953 27 24 1963 30 28
1954 32 26 1964 29 30
1955 30 24 1965 25 27
1956 27 29 1966 24 25
1957 28 35 1967 29 23
1958 31 33 1968 25 31
1959 27 38 1969 22 24
合計 302 282 合計 278 291
1970 25 25 1980 16 22
1971 17 24 1981 20 19
1972 26 20 1982 20 20
1973 24 21 1983 18 18
1974 20 16 1984 17 21
1975 20 23 1985 17 21
1976 20 26 1986 18 16
1977 20 20 1987 17 19
1978 17 25 1988 18 15
1979 22 21 1989 20 19
合計 211 221 合計 181 190
1990 20 18 2000 14 14
1991 17 17 2001 14 15
1992 17 18 2002 17 17
1993 17 17 2003 20 20
1994 19 15
1995 18 16
1996 16 17
1997 18 15
1998 17 13
1999 20 16
合計 179 162

 1950年代の最多勝を全球団平均すると29.2勝になる。つまり毎年最多勝を獲得していれば、10年間で292勝できる計算になる。もっとも最多勝は、2年連続で獲得することも容易じゃないから、10年間で300勝近くすることは不可能に近い。あくまで、最高水準での比較でしかないが、最多勝の平均は、1950年代をピークに下がり続ける。
 1960年代には少し下がり、28.5勝。そして、1970年代に入ると21.6勝となってしまう。毎年最多勝を獲得していても10年目で辛うじて通算200勝が達成できる程度になってしまったのだ。1970年代から、ローテーション制という考え方が徐々に出てきたからだろう。
 さらに、1980年代になると、18.6勝まで下がる。毎年最多勝を獲得していても10年では通算200勝を達成できなくなってしまったのだ。
 さらに1990年代になると17.1勝まで下がってしまう。こうなると毎年最多勝を獲得していても、通算200勝を達成するには12年かかってしまうことになる。1998年のパリーグは、最多勝が13勝という史上最低記録だった。この調子で行けば、最多勝が10勝を下回るなんてことも起きないとは限らない。
 最多勝の分布図を見ても、1960年代までは20勝以上すれば一流投手で30勝以上すれば超一流投手といったところだ。
 それが、1970年代に入ると30勝以上というのは1人もいなくなる。1980年代に至っては25勝以上というのも1度もない。
 1990年代に入ると20勝というのが限界になってしまっている。10勝すれば一流投手として認められるまでになっているのである。
 工藤が先発投手として活躍し始めるのは、ローテーション制度が確立しようとしているまさにその時期で、同時に20勝投手が出にくくなって行く時期と言うこともできる。
 
 工藤が1960年代の投手であれば、もうとっくの昔に通算200勝を達成していただろう。逆に3、4年で肩や肘を壊して潰れていた可能性も否めない。
「権藤、権藤、雨、権藤」と言われた権藤博は、通算100勝すら達成できずに引退した。「神様、仏様、稲尾様」と呼ばれた稲尾和久も、晩年は肩を痛めて苦しみ、実働14年に終わっている。通算400勝の金田正一ですら、実働20年でしかない。
 プロ23年目も、ローテーション投手として投げ続ける工藤は、一昔前の投手から見れば奇跡と映るにちがいない。


  5.何歳まで投げられるのか

 工藤は、1年間を故障で棒に振ったという年はないから2004年が実働23年目である。この記録が日本プロ野球では投手として新記録なのだ。
 これまで実働22年の投手は4人。4人とも、年数に負けない好成績を残している。
 
投手名 プロ生活期間 通算成績
米田哲也 1956〜1977 350勝285敗2S
石井茂雄 1958〜1979 189勝185敗3S
村田兆治 1968〜1990 215勝177敗33S
大野豊 1977〜1998 148勝100敗138S
※村田兆治は故障による1年間のブランクがある。


 大野豊は、42歳で最優秀防御率のタイトルを獲得し、43歳まで現役を続けた。実働21年だった佐藤義則は、44歳まで現役を続けた。昔なら30代後半には引退、というのが通例だった投手の寿命は、ここのところ延びてきている。
 果たして工藤は、何歳まで先発ローテーションで投げることができるのだろうか。肩の若さはまだ30代前半と言われる工藤は、今後、投手としての最年長記録を次々に塗り替えてくれるにちがいない。工藤の成績を追う桑田真澄や山本昌にとっても工藤が何歳まで先発投手としての役割を果たせるかが一つの基準になってくるだろう。23年間も投げ続けていれば、満身創痍にちがいないから、楽になりたいと一度思ってしまえば、即引退となってしまう。そこをいかに克服するかが今後の工藤の大きな鍵になるだろう。
 打者は、動体視力の衰えによって、40代半ばになれば、まず引退をよぎなくされる。しかし、投手は、肩や肘のケアさえ完璧にやれば、50歳になっても投げられるのではないか。村田兆治は、50歳を超えても140キロに迫る直球を投げることができるのだ。
 年齢との壮大な戦いに勝った工藤が50歳のマウンドをプロ野球選手として迎えてくれれば、年齢に対する僕らの常識は大きく覆されることになる。





(2004年8月作成)

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