甲子園にこだわり続けた男 〜名将 木内幸男の51年〜

山犬
 
   木内幸男という監督

 2003年、都市対抗野球で野村克也監督率いるシダックスが準優勝を果たした。野村は、南海・ヤクルト・阪神のプロ野球監督を20年間歴任した後、アマチュア野球の監督として再スタートを切った。その1年目での準優勝だった。知将と評された能力をいきなり発揮してみせたわけである。
 では、逆にアマチュア野球の監督にプロ野球の監督をさせるとしたら?
 アマからプロというのは、プロからアマへ代わるよりも実現は困難だろう。第一、技術のレベルが違う。100試合を超える長丁場だから監督自身のプロ経験もあった方がいい。
 それらを承知で、もしもが許されるのなら、僕は、木内幸男を選ぶ。
 木内幸男は、1931年7月13日生まれ。既に70歳を超えている。
 高校時代の木内は、甲子園を目指す球児だった。中堅手や遊撃手としてレギュラーで活躍している。しかし、甲子園には行けなかった。
 卒業後、木内は、そのまま土浦一高にコーチとして残る。
 その理由は、自らのエラーで甲子園出場を逃した、という悔いからだった。悔いを味わった者は、進むべき分かれ道の選択を余儀なくされる。悔いを糧に次の道に進むか、悔いを忘れてあきらめの道を進むか、悔いにあくまで執着してどんなことをしてでも挑戦を続けるか……。
 木内は、最も困難な道を選んだ。つまり、あくまで甲子園に執着して挑戦を続ける道だった。普通の大学生活に入り込んでいくことが木内にとっては、後ろめたさ以外の何ものも感じえなかったのだろう。
 やり残したものを永遠に置いたまま、次の道へ進んでいくことができない。一言で言えば、木内は、そういう種類の人間なのだと僕は思う。何事かを成し遂げるために必要なもの。木内は、それを心の内に持っていた。
 1953年には早くも土浦一高の監督に就任。ここから木内の長い監督人生がスタートしている。


   甲子園の壁

 木内幸男という名前が世間に広く知られるようになるのは監督になって随分後のことである。
 木内は、1957年に取手二高の監督に就任している。取手二高は、県立高校だった。県立高校は、私立高校に比べて自由に部活動をできる時間が限られていることが多い。選手を集めるにも限度がある。だから、スポーツで好成績を収めるのは私立より不利とされている。
 甲子園に出場してくる高校も、圧倒的に私立高校の方が多い。だが、木内は、無名の県立高校の監督に就任し、甲子園を目指す戦いに入っていく。
 最初に木内がとった教育は、スパルタだった。木内は、選手のレベルを上げるため、テスト期間中であっても学校に知られないよう川原に選手を集めて練習させたという。
 試行錯誤の末、初めて甲子園に辿り着いたのは1977年の夏だった。木内が取手二高の監督になって既に20年が経過していた。
 そうして、初めて甲子園に出られたとき、選手の中に甲子園を楽しむという雰囲気はなかった。悲壮感が漂うような重苦しいチームになっていたという。
 そう。甲子園に出る選手達は、一つの都道府県を背負っていた。しかも甲子園は、いついかなるときにも全力で真剣に戦い、高校生らしさを求める道徳教育の場でもあった。
 取手二高は、1回戦に勝ったものの、2回戦で敗れる。
「茨城県勢は弱い」
 そんな世間の評価を覆すことはできなかった。そればかりか、その後、木内は、甲子園に出るたびに初戦で敗退する屈辱を3回連続で味わう。
 木内は、ようやくチームを甲子園に出るレベルにまで育て上げたところで、もう一つ上の壁にぶち当たったのである。

   1984年 夏

 木内は、甲子園の壁に跳ね返されながら、自らの中で一つの意識改革をする。甲子園で野球をして勝つ喜び、プレーする楽しさを教え込み、茨城県勢を全国で通用するレベルにまで上げようと誓うのである。
 「スパルタ」に「のびのび野球」を加える。1984年こそ、それが花開いた年だった。木内は、取手二高を率いて夏の甲子園に出場する。木内にとって、春夏通じて6回目の甲子園だった。
 優勝候補ではなかった取手二高は、あれよあれよという間に決勝まで駒を進めて桑田真澄・清原和博のいるPL学園と対戦することになった。
 PL学園は前年の夏の甲子園で優勝しており、二連覇を狙っている。試合前まではほとんどの人々がPL学園の二連覇を予測していた。
 それに対して取手二高は、それまで優勝経験はおろか、3回戦敗退が最高というチームだった。そして、茨城県勢でそれまで甲子園を制したチームはなかった。
 下馬評ではPL学園が取手二高を圧倒して優勝。その通りに進めば、平凡な決勝戦にとどまったにちがいない。
 試合は、意外にも、と言ったらいいのだろうか。好試合になった。取手二高が先に点をとってPL学園が追いかける展開である。
 桑田真澄は、連戦の疲れからか、8回表までに4失点を喫していた。取手二高が4−1でリード。しかし、8回裏に2点を返したPL学園は、9回裏、起死回生の本塁打によって同点にした。
 僕は、この試合を最初から最後までテレビ観戦している。僕が試合の一部始終を記憶しているのは、高校野球・プロ野球を通じてこの試合が最初である。
 同点本塁打が出たとき、僕は、PL学園の勝利を確信していた。「逆転のPL」と呼ばれるほど、PL学園は逆転勝ちを得意としていたからだ。
 しかし、取手二高の強さは、僕の予想を遥かに超えていた。10回表にあっさり4点を奪って優勝してしまったのだ。
 「のびのび野球」と評された県立高校の名門校撃破は、まだ野球を知ったばかりの僕に大きな衝撃を与えた。


  常総学院を甲子園の優勝候補常連高に

 木内は、この優勝後、私立の常総学院という高校に移る。新設された高校の新設された野球部の監督として指揮をとってくれるよう熱心に勧誘する人がいて、その熱意に打たれたのだという。
 設備と練習環境が整った私立高校は、木内にとって鬼に金棒だった。
 常総学院は、木内が監督になって2年後、甲子園初出場を果たす。以降、常総学院は、甲子園出場の常連校となっていく。
 1987年夏には野村弘樹・立浪和義・片岡篤史らがいたPL学園に決勝で敗れたものの準優勝を果たす。「木内マジック」は、甲子園の代名詞となっていった。
 1994年春にも準優勝、そして2001年春には全国制覇を成し遂げる。
 その間には仁志敏久、金子誠、島田直也といったプロ野球選手も育て上げた。

 取手二高で初の全国制覇を達成してから19年が過ぎた2003年夏、木内は72歳になっていた。木内は、この夏の甲子園を最後に監督を勇退することを決めていた。
「選手を育てる気力が続かない」
 それが理由だった。
 木内マジックは、最後の夏となるその甲子園で冴え渡る。
 巧みな選手起用を駆使して、またしても決勝まで勝ち進むのである。
 決勝では東北高校の好投手ダルビッシュ有を打ち崩して4−2で自身2度目の夏の甲子園制覇。
 高校野球の監督生活51年の最後は、見事なまでの有終の美だった。


  51年という歳月

 51年。それは、口にするのはたやすいことだが、半世紀を超える期間である。これだけ長い間、一途に高校野球の監督をしていた男は、そう見つけられないだろう。
 何せプロ野球の監督なんて大抵数年で代えられてしまう。あの奇跡のV9を達成した川上哲治でさえ14年しか監督をしていない。
 ミスタープロ野球と呼ばれる長嶋茂雄でも2度の監督期間を足して15年にしかならない。
 過去を見渡してみると、最も長くプロ野球の監督を務めたのは藤本定義で、プロ野球の草創期から昭和40年代まで31年間やっている。
 それでも、木内の51年には到底及ばない。
 これだけ高校野球に、そして甲子園に、生涯をかけてこだわり続けた男を僕は知らない。おそらく今後も出現しないのではないだろうか。51年と言えば、大学を卒業した男が普通に定年まで働く38年という年月を遥かに超えている。
 最後に木内の甲子園での成績を書いておく。甲子園出場は春7回で13勝6敗、優勝1回、準優勝1回。夏13回で27勝11敗、優勝2回、準優勝1回。通算成績は、40勝17敗。甲子園40勝は、監督として歴代3位の記録である。



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