記憶に残る輝き 2   
〜日本を震撼させた選手たち ボブ・ホーナー、セシル・フィルダー〜


山犬
 
 前回の「記憶に残る輝き1」では故障のために太く短い野球人生を送らざるをえなかった名選手3人を描いた。ただ、彼らは、同じような境遇に陥った数多くの選手たちのごく一部でしかない。そういった数多くの選手たちも描いて行きたいところではあるが、それでも尚、抜け落ちて行く選手がいる。
 それは、もっと特殊な形でわずか1年だけ日本プロ野球で光を放ち、またすぐに去って行った選手たち。すなわち、助っ人として来日する外国人選手である。
 現在のように、いとも簡単に日本人大リーガーが誕生するようになったきっかけは、野茂英雄の突出した能力と行動力によるものと決めてしまいがちだが、果たしてそういう日本の内的要因だけなのかという疑問が残る。
 野茂が大リーグ挑戦をあれだけ頑ななまでに貫いたのには、絶対に成功できるという確信が彼の中にあったからでもある。
 その確信が生まれる元になったのは、何なのか?五輪経験もあるだろう。獲得した数々のタイトルもあるだろう。そして、そのうちの一つに、おそらくは日本プロ野球界で活躍した「現役ばりばりの大リーガー」の存在があったのではないだろうか。


 ボブ・ホーナー   〜本物の大リーグを運んできた黒船〜

 最も記憶に残る外国人選手は?と問われれば、誰を思い浮かべるだろうか。ランディ・バースやブーマー・ウェルズ、チャーリー・マニエルなど、日本で華々しい活躍を見せて、未だに英雄とあがめられる選手がまず挙がってくるだろう。
 だが、もし1年限りで日本を去った外国人選手で最も記憶に残る選手と言えば、誰だろうか。
 ボブ・ホーナー。僕は、躊躇なくそう答える。
 ホーナーほど、日本で衝撃的なデビューを果たした外国人選手はいない。
 かつてヤクルトは、現役の一流大リーガーだったペピトーンを獲得して痛い失敗を犯した。1973年に32歳で来日したペピトーンは、既に大リーグで219本塁打、1315安打を残した名プレーヤーだった。だが、ペピトーンは、完全に日本野球を見下した大リーガーで、練習も試合も手を抜いた。挙句の果てに14試合で打率.163、1本塁打という散々な結果を残して、シーズン途中で突如、帰国してしまい、翌年には来日すらしなかったというダメ外国人選手である。大リーグの大スターが全く言葉も通じず、生活環境も、野球のスタイルも違う日本に身を置いてしまったという不幸には同情の余地があるかもしれない。だが、ペピトーンが日本野球に対してとった態度は、汚点としか言いようがないものだった。

 それなのに1987年、ヤクルトは、またしても現役の一流大リーガー、ボブ・ホーナーを獲得する。ホーナーは、マイナーを経験したことがないエリート中のエリートだった。ヤクルトは、おそらく以前の失敗を教訓にして素行を調査し、問題のない外国人選手と判断して獲得に動いたにちがいない。
 ホーナーは、1978年に大リーグのブレーブスに入団すると、その年に打率.266、23本塁打、63打点の成績で新人王を獲得する。翌年に打率.314、33本塁打、98打点を残して一気に大リーグを代表する打者となった。
 3年目には35本塁打を放ち、1983年には2度目の3割達成など、ブレーブスの主砲として活躍を続ける。来日する前年の1986年も打率.273、27本塁打、87打点とまずまずの成績を残している。

 それなのに、なぜ大リーグの他球団を選ばず、日本を選んだか。それは、当時の大リーグ事情によるしわよせだった。
 1986年のオフ、ブレーブスの出した年俸に不満があったホーナーは、FA権を行使して獲得に名乗りを挙げる球団を待った。だが、どの球団もが主砲として期待できるはずのホーナーを獲得しようとしなかった。
 当時の年俸の高騰傾向に歯止めをかけたかった各球団がFA選手の獲得を見合わせたのである。移籍先をなくしたホーナーは宙に浮いた。その隙をつくように年俸3億円で名乗りを挙げたのが日本のヤクルトだった。
 ホーナーは、ひとまず野球をするためにヤクルト入団を決意せざるをえなかった。

 1957年8月生まれのホーナーは、来日時にはまだ29歳と、打者としては全盛期にさしかかろうという年齢だった。
 そんな年齢で、しかも大リーグを代表する打者が来日するのは極めて珍しい。ホーナーは、来日当初からバースやブーマーとは違った目で見られていた。大リーグで実績のない彼らより好成績を残して当然だと。5月からの出場になるにもかかわらず、ホーナーは、シーズン50本塁打への期待を込められ、背番号50をつけることになった。

 だが、日本プロ野球のデビュー当初、ホーナーは、周囲の予測を遥かに超越したバッティングを日本人に見せつけることになる。デビュー4試合で11打数7安打6本塁打という驚異的な活躍をしたのである。日本は、一気にホーナーブームになった。テレビでは連日ホーナーの本塁打シーンが流れ、CMにも登場した。その後、日本投手からの敬遠攻めや研究されたことによってペースは落ちたものの、順調に活躍を続け、7月にはオールスターゲームのファン投票で1位に選出される。
 しかし、ホーナーは、この7月に体調不良で数試合を欠場し、オールスター直前にも試合で腰を痛めて数試合を欠場し、オールスター出場も辞退する。
 慣れない日本野球での疲労が蓄積した結果ではあったが、ホーナーは何とか持ち直して8月21日には20号本塁打、9月26日には30号本塁打を放った。

 結局、5月からの試合出場だったことと7月の欠場が響いて93試合の出場にとどまり、規定打席には達しなかったものの打率.327、31本塁打、73打点という好成績を残した。130試合出場していれば、43本塁打を放ち、102打点を挙げていた計算になる。
 この年の本塁打王が39本塁打のランス、打点王が98打点のポンセ、首位打者が打率.333の篠塚利夫と正田耕三だから、三冠王を獲得できる可能性も充分にあったのだ。
 そんな側面から見れば、やはりホーナーは、怪物だった。

 ボブ・ホーナーは、日本に未曾有の旋風を残して、わずか1年限りで日本を去って行った。歴史に残る言葉を残して。
「地球のウラ側にもうひとつの違う野球があった」
 狭苦しい球場、バントや変化球を多用する小細工満載のプレー、引き分けのある試合、画一的な長い練習とミーティング、観客を隔てる高いフェンス、過剰なマスコミとファンの熱狂。加えて、あまりにもアメリカと異なる生活環境で一時期はホームシック同然の状態に陥ってしまったホーナーの目には、大リーグと日本のプロ野球が全く別次元のスポーツに映っていたのだろう。
 そこには、ホーナーのような卓越した能力と個性を持ち合わせたアメリカ的な選手と、バブル絶頂期で球団の歯車としてただ一心不乱に働く日本人的な選手たちとの相違が見てとれる。

 ただ、ホーナー自身は、日本のプロ野球で完全に調子を崩されたのか、翌年にカージナルスで大リーグ復帰を果たしたものの、打率.257、3本塁打というあまりにも平凡な成績で終わり、引退することとなった。皮肉にも日本の生活に適応できなくても日本プロ野球にはそこそこ適応して好成績を残したホーナーは、翌年、生活に適応できるアメリカで大リーグに適応できなくなってしまったのである。結果的に来日が彼の選手生命を縮めてしまうという悲劇を生んだ。
 それでも、ホーナーの大リーグ通算成績は、10年間で打率.277、218本塁打、685打点、1047安打とまずまずのものである。

 ホーナーが来日した8年後、野茂英雄が渡米して大リーグで新人王を獲得し、2001年にはイチローが大リーグのシーズンMVPを獲得するというめまぐるしい変化が起こった。それは、ホーナー来日の14年後のことだった。かつて日本の鎖国を打ち破るため、黒船が来襲したのは1854年だった。日本が明治維新を迎えるのはその14年後のことである。どちらも、わずか14年という短い年月の中で、天と地が入れ替わるような変革をもたらしたという共通点に僕は、因果さえ感じてしまう。
 ホーナーは、日本に本物の大リーグをそのまま持ち込み、日本人に大きな衝撃を与えた。そして、見せつけた高いバッティング技術とパワー、常に全力を尽くすプレーは、日本人選手や野球少年にも大きな憧れを抱かせることになった。日本人がいつかホーナーみたいな選手が数多くいる大リーグへ挑戦してみたいと志す下地を作ったとさえ言える。
 とはいえ、ホーナーの成績は、日本人であっても一流選手ならば手が届きそうな成績であることも確かだった。ホーナーは、日本人に憧れを抱かせるとともに、日本人の大リーグに対する過大評価を少し考え直させる効果までも、もたらしたのである。
 少し大げさな言い方をするならば、ボブ・ホーナーは、日本に国際化の門戸を開くように告げに来た一隻の黒船だったのである。


 セシル・フィルダー  〜日本プロ野球のレベルの高さを証明したスラッガー〜

 熊のような選手が阪神に入ってきた。
 それがフィルダーに対して抱いた僕の印象だった。丸太のような腕とは、フィルダーのためにあるような言葉だとも感じた。ウエイトトレーニングで鍛え上げた肉体が放つパワーは、他の外国人選手と比べても勝るにちがいなかった。
 だが、フィルダーは、ホーナーのような有名大リーガーではなかった。1982年にプロの世界に入ったフィルダーは、1985年からブルージェイズで大リーグの試合に出場を果たすものの、常に控えとしての選手生活だった。目立つのは1985年に30試合に出場して打率.311を残したことや、1987年に82試合に出場して14本塁打を記録したことくらいである。
 しかし、この1987年は、わずか175打数で14本塁打しており、まともにレギュラーとして出場していれば40本塁打以上した計算になる。
 それを考えれば、阪神は、いい選手に目をつけたわけである。 

 試合への出場機会に恵まれる日本に魅力を感じて、25歳だった1989年に来日したフィルダーは、バースや掛布雅之がいなくなり、弱小となった阪神で孤軍奮闘する活躍を見せる。
 来日当初こそ、日本の投手の変化球とボールの見極めに苦労したものの、それらを克服すると本領を発揮して本塁打を量産する。
 そして、8月には1試合3本塁打を放つ豪快さも見せて、ついに本塁打王争いのトップに踊り出たのである。
 ところが、フィルダーは、せっかくスポットライトを浴びられる頂に辿り着いたのに、自ら前代未聞のミスを犯してしまう。9月14日の巨人戦で三振した際、地面に叩きつけたバットが跳ね返って右手を直撃し、小指を骨折したのである。まさに自業自得の故障により、フィルダーは、シーズン終盤を棒に振った。ほぼ手中に収めていた本塁打王も、みすみす逃すことになった。
 それでも、2年連続最下位だった阪神の最下位脱出の原動力となり、シーズン成績も、主砲らしいものである。106試合の出場ながら38本塁打、81打点、打率.302。もちろん、長打率は、リーグ1位だった。

 その後、フィルダーは、契約更改で複数年契約を要求し、単年契約しか認めようとしない阪神ともめて退団する。
 このままアメリカに帰っても鳴かず飛ばずであれば、フィルダーは、大阪人好みの笑い話で永遠に馬鹿にされたはずである。
 だが、フィルダーは、帰国後、鳴かず飛ばずどころか、大阪人の肝をつぶすほどの活躍を見せる。
 大リーグのデトロイト・タイガースと契約したフィルダーは、打率.277、51本塁打、132打点という信じがたい活躍を見せ、本塁打王と打点王の2冠に輝いてしまったのである。しかも、大リーグ史上11人目の50本塁打達成とあって、アメリカ中をブームに巻き込んだのである。
 「ほんまに同一人物なんか?」
 と大リーグのニュースを見た大阪人が目を疑ったのもうなずける。
 日本で30本台の本塁打を残し、3割を辛うじて超える程度の打者が大リーグで51本塁打も放てるはずがない。
 当時の日本人は、一体いつの間にフィルダーがそんな急成長を遂げたのか、と首を傾げた。将来、野茂やイチローが大リーグでタイトルを獲得するなんて、想像すらできない時代である。フィルダーが日本で見せたプレーをそのまま大リーグで見せているだけ、とは誰一人考えなかったのである。
 だが、フィルダーも、日本で130試合出場していれば47本塁打を放っていたことになるし、1990年にフィルダーが大リーグで出場した159試合に換算したら57本塁打という計算になる。フィルダーは、大リーグに戻って急成長したわけではなく、日本のプロ野球でプレーしていたとき、既に世界を代表するスラッガーだったのである。

 フィルダーは、翌1991年にも44本塁打、133打点で2年連続の本塁打王と打点王の2冠に輝き、名実ともに大リーグナンバーワンのスラッガーとなる。
 さらに、1992年には本塁打こそ35本に終わったものの、124打点を挙げて3年連続の打点王という記録を打ち立てた。大リーグでの3年連続打点王は、1919年から1921年にかけてベーブルースが達成して以来、実に70年ぶりという快挙だった。
 フィルダーは、1996年にもタイガースからヤンキースへの移籍もあって2球団で活躍し、両球団で計39本塁打を放つ活躍を見せる。そして、ヤンキースのワールドシリーズ出場に貢献し、さらにワールドシリーズでも打率.391を残して世界一に大きく貢献した。
 フィルダーの野球人生は、不遇な前半時代とは打って変わって、来日してからの後半時代は、数々の栄光に彩られた華やかなものとなった。
 1998年限りで現役を引退したフィルダーは、不遇な前半時代を過ごしたにもかかわらず、大リーグ通算319本塁打、1313安打、1008打点、打率.255という一流の実績を残した。日米通算本塁打数は、357本だった。

 来日前、既にパワーはメジャーのトップクラスだったフィルダーが日本で身に付けたのは、変化球打ちと選球眼だったと言われる。特に来日当初は、変化球に弱く、ほとんど直球しか打てず、阪神の首脳陣も日本での活躍すら疑問視していたという。
 そんな選手が大リーグでアメリカ中を震撼させるほどの成績を残す。これは、当時の日本人にとって奇跡以外の何ものでもなかった。
 だが、フィルダーを間近で見ていた日本人選手は、既に感じていたのではないか。フィルダーを抑えた投手は、俺も大リーグで抑えられるはずだ、と。フィルダーより打率の良かった打者は、俺も大リーグでヒットを量産できるはずだ、と。
 事実、そんな夢のような現実は、もはやすぐそこまで来ていた。6年後、大リーグで野茂英雄が最多奪三振のタイトルを獲得し、12年後にはイチローが首位打者と盗塁王のタイトルを獲得して日本プロ野球がすべての面において、高いレベルにあることを証明したからである。




(2006年7月作成)

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