記憶に残る輝き 1   〜太く短く輝いた選手たち 伊藤智仁・与田剛・吉村禎章〜

山犬
 
 @太く短く輝いた選手たち

 2005年6月、広島の新井貴浩選手が6試合連続本塁打を記録した。惜しくも王貞治とランディ・バースが持つ7試合連続本塁打には及ばなかったが、価値ある記録ということに間違いはない。
 僕は、テレビで流れるそのニュースをぼんやり眺めながら、想像にふけった。この記録は、後世どんなふうに語られることになるのだろう、と。
 もし新井が今後、本塁打王を何度も獲得する大打者になれば、彼の残した伝説の一つとして何かある度に語られることになるだろう。だが、もし新井が今後、故障もないのに尻すぼみの成績に終わり、半レギュラーの状態に落ち着いて引退していけば、語られることもなくなるだろう。
 そうではなく、新井が大きな故障でもして今後の選手生命を棒に振るようなことが仮にあったとすれば、どうなるだろうか。悲運の大打者として永遠に語り継がれることもありえるだろう。
 また、引退後に芸能人や解説者、監督などで活躍すれば、残した記録は事あるごとに語られることになるだろう。

 たとえ同じ記録であっても、選手の野球人生や引退後の進む道によって語り継がれる度合いが大きく変わる。
 たとえば、坂東英二や金村義明は、プロ野球選手としてまずまずの成績を残したが、引退後は話術に磨きをかけることによって、名球会に入った選手以上にマスコミで現役時代の成績を語られる頻度が高い。
 また、ほんの一時期だけ素晴らしい活躍を見せながら故障や戦争によって選手生命が短かった権藤博や沢村栄治といった選手も伝説として長く語り継がれている。

 こうした選手の中で、僕たちの記憶に焼きついて離れないのは、選手として絶頂期にさしかかろうとした若き時代に不慮の故障によってその後の選手生命を棒に振ってしまった人々である。
 当サイト「伝説のプレーヤー」の作成基準として通算100勝以上とか、2タイトル獲得以上といった下限を設けている。そうしなければ、人数が多くなりすぎて収拾がつかなくなってしまうからなのだが、それに対してこんな指摘が多いのだ。
「『無事これ名馬』といった選手が作成候補になるのに、太く短く輝いた選手が抜け落ちている」
 僕もそのことは重々承知していたのだが、それでもやはり語らずに済ますことができない選手というのはどうしても出てきてしまうものである。
 そういった選手を語る場所を僕は、常々、コラムで取り上げる予定にしてきた。でも、実際は、なかなか断片でしか取り上げることができず、どこかで特集を組まねばならないという考えは後回しになっていた。
 ここで思い切って太く短く輝いた選手の特集を組むことにした。もちろん、今回だけで終わりではなく、折を見て何度も組むつもりでいる。


 A悲運の大投手 伊藤智仁

 故障がなければとてつもない通算記録を残していたにちがいない。そんな選手を数え始めたら、誰しもすぐに何人かの選手が頭に浮かぶだろう。
 満たされた現役生活を送り、偉大な通算記録を達成して辞めていった選手よりもむしろ思い入れが大きくなってしまうこともある。それは、尾崎豊や赤木圭一郎、夏目雅子、hideら、若くして世を去ったカリスマがいつまでも世間から強い愛情を受けるのと似ている。

 僕がこのサイトを作り始めて以来、様々な方々から話を伺ってきたが、その中で「最も取り上げて欲しい選手」との声が大きかったのが伊藤智仁だった。
 バルセロナ五輪で2勝を挙げて一躍日本の枠を超え、世界に名をとどろかせた伊藤は、1993年に三菱自動車京都からドラフト1位でヤクルトに入団する。3球団が競合したが、残った最後の封筒が相思相愛だったヤクルトの手に渡ったのである。

 プロ1年目は2軍スタートとなり、イースタンの開幕戦で先発して7回4失点の成績を残した。2軍相手に4失点という成績に物足りなさを感じる人もいるだろうが、伊藤を打ち崩す本塁打を放ったのが同じくプロ1年目の松井秀喜だったことを語れば納得がいくだろう。
 あのイチローが1軍での初本塁打を野茂英雄から放ったように、超一流選手には運命的としか言いようのないつながりができることがある。松井のプロ入り初本塁打が伊藤だったことは、その年、最後まで伊藤と松井が1軍で新人王を争うことになる前哨戦だったととらえることもできるからだ。
 前哨戦に完敗した伊藤はすぐさま巻き返しを図る。

 次の2軍戦で完封した伊藤は、すぐ1軍へ上がり、プロ野球ファンの度肝を抜くピッチングを見せる。常に150キロ近い球速の直球と異常に大きく曲がって落ちる高速スライダーを武器に奪三振の山を築いていくのだ。
 7月4日まで14試合に登板して7勝2敗で4完封、そして何よりも素晴らしいのが109回を投げて奪三振126、防御率0.91という記録である。あと23回投げれば規定投球回に達し、文句なく最優秀防御率のタイトルを獲得できる。最優秀防御率は大抵、2点台前半が関の山だから伊藤の防御率はそれを1点以上も上回る大差をつけてしまえるはずだった。
 だが、伊藤は、7月4日の巨人戦を最後にマウンドから姿を消す。右肘痛のためだった。この年の最優秀防御率のタイトルは、防御率2.05を記録した山本昌広が獲得した。

 防御率0点台で最優秀防御率に輝いた投手を調べてみると、戦後では1970年に防御率0.98を記録した村山実しかいない。その村山実は、通算200勝達成をはじめ、多くの記録を残した大投手だが、村山は、ルーキーイヤーに天覧試合で長嶋茂雄にサヨナラ本塁打を浴びた悲運の投手というイメージが常について回った。体に負担のかかるザトペック投法もそれであったし、現役晩年の故障禍も悲壮感をいっそう露わにした。

 その村山に似た境遇を伊藤から読み取ることができる試合がある。ルーキーイヤーの1993年6月9日、巨人戦に先発した伊藤は、打者を手玉に取り、9回裏2死まで無失点、16奪三振を記録した。1試合16奪三振は、セリーグタイ記録である。9回の3アウト目になる打者は、日本タイ記録となる17奪三振で飾るはずだった。
 だが、スコアは0−0。あまりにも緊迫した場面で日本記録を狙わなければならなかった伊藤は、あろうことか好打者篠塚和典にサヨナラ本塁打を浴びてしまうのだ。それが伊藤の現役時代について回る悲運の前兆だったと言えなくもない。
 何せ、1993年の伊藤は、もう2度と戻ってくることはなかったからだ。

 短期間ながら圧倒的な存在感を見せつけた伊藤は、この年11本塁打に終わった松井秀喜を破ってセリーグの新人王に輝く。
 だが、伊藤は、そんな余韻に浸ってるどころではなかった。右肘痛と右肩痛との闘いは、その後3年間に渡って続くことになる。
 復活したのは1997年だった。リリーフで好投を続け、7勝2敗19セーブ、26セーブポイント、防御率1.51を残したのである。速球もほぼ元の球威を取り戻しているように見えた。伊藤は、この年、カムバック賞を受ける。ただ、その年は、佐々木主浩と宣銅烈が伊藤を上回るハイペースでセーブを積み重ねていたせいで、伊藤の復活はそれほど大きく取り上げられることはなかった。
 翌年からまた先発に復帰したものの、好投するわりには勝ち星に恵まれず6勝、8勝、8勝と2桁勝利に届かなかった。故障を抱えたまま何とかごまかしながら投げていた伊藤は、1999年に右肩を手術、2001年4月にも右肩を痛め、再び手術。2002年以降は1軍で再び投げるためのリハビリに専念することとなる。
 2002年10月24日、伊藤は、コスモスリーグで復活に向けて実戦マウンドに上がったものの、直球は140キロに満たなかった。そして、1人目の打者を三振に打ち取った後、2人目の打者に投げた初球は、打者の頭上を超える暴投となった。この投球のとき、伊藤は、右肩を亜脱臼していた。
 僕は、このニュースにとてつもなく大きな衝撃を受けたことを覚えている。
 折りしも、この年のオフ、1993年に新人王を争った松井秀喜は、大リーグのヤンキースに鳴り物入りで入団することが決まる。
 その陰で、伊藤は、球団が用意した引退して指導者という道を固辞し、8000万円の年棒が1000万円になるという大幅減俸を受け入れての現役続行を決める。

 度重なる故障で伊藤の右肩は、もはや回復はおろか悪化するのを食い止めることさえ叶わなくなっていた。2003年10月25日、1年ぶりにコスモスリーグに登板した伊藤のMAXは109キロ。全盛期より40キロ以上も遅い直球は、それだけで故障の壮絶さを雄弁に物語っていた。そして、その登板は、復活のマウンドではなく、引退を自ら世間に告げるマウンドだった。
 10年前、伊藤と新人王を争った松井秀喜は、この年、大リーグでまずまずの活躍を見せて新人王を争うが、ここでも彼は新人王を逃す。
 僕の中では伊藤の109キロの方が松井の大リーグでの活躍よりも大きなインパクトを持って迫ってきた。
 最後の2年間で1試合ずつ投げたコスモスリーグでの最後の2試合は、伊藤の野球に賭ける情熱を痛いほど見せつけてくれた。1993年と1997年という2回の光に満ちた強い輝きがあるからこそ、僕たちの脳裏に焼きついて決して離れないだろう。
 1軍での通算成績は、プロ11年で37勝27敗25セーブ、防御率2.31。これだけの通算成績ながら2点台前半の防御率を残していることはそれ自体が奇跡である。


 B157キロの剛速球ストッパー 与田剛

 ルーキー野茂英雄がタイトルを総なめにしてトルネード旋風を巻き起こした1990年のパリーグ新人王はもちろん野茂である。では、セリーグの新人王は誰だったか覚えているだろうか。
 あの星野仙一監督でさえ「♪すごい男がいたもんだ」と、当時流行していたCM音楽のフレーズを口ずさんでしまったほどの投手である。

 そのフレーズが出たのは、4月7日の開幕戦後のことだった。名ストッパー郭源治が故障し、中日は絶対的なストッパー不在のままシーズンに突入していた。
 延長11回表無死1・2塁という大ピンチで星野仙一監督は、あろうことかプロで全く実績のない与田を投入する。亜細亜大学では故障がちでわずか1勝に終わり、社会人野球のNTT東京でようやく素質が開花した投手である。
 絶体絶命のピンチでありながら与田は、落ち着いていた。甘いマスクながら、がっちりした肩幅で打者を威圧すると、大洋打線に真っ向勝負を挑んだ。直球は、150キロを超え、投げるたびに威力を増した。そして、MAX153キロを連発することになる。
 僕は、このとき、ラジオで試合中継を聴いていた。与田がコールされたとき、僕は
「星野監督得意のルーキー起用が来た。また、大きな賭けに出たな」
 と感じたものである。
 星野の思い切った選手起用はそのときに始まったことではない。監督就任した1987年には高卒ルーキーの近藤真一を初登板初先発で起用し、巨人相手にノーヒットノーランを達成するという奇跡を演出した。
 また、翌1988年にはこれまたドラフト1位ルーキー立浪和義を開幕戦からレギュラー遊撃手として起用し続けて新人王を獲得させ、のちに通算2000本安打達成の大打者となる礎を作った。
 1989年にもルーキー今中慎二がプロ初勝利を挙げたし、ルーキー大豊泰昭が14本塁打を放って大器の片鱗を見せつけた。
 周囲には無謀と映った与田投入も、星野にとってはルーキーを起用する絶好の機会だったわけである。
 与田の投げ下ろすMAX153キロの、しかも低めに伸びるストレートは、大洋打線も歯が立たなかった。ピッチャーゴロと連続三振。
 与田は、軽くピンチをしのいでしまうのだ。実況したアナウンサーの絶叫のような興奮した中継は未だに蘇ってくるが、その豪快なピッチングには、起用した星野でさえ驚くのも無理はなかった。この試合で与田のストッパー就任はあっさり決まった。
 剛速球とフォークボールを武器にストッパーに定着した与田は、ルーキーとは思えないマウンドさばきでいとも簡単にセーブを積み重ねる。
 圧巻は、8月15日の広島戦だろう。与田の剛速球はうなりを上げ、ついに日本新記録となる157キロを記録したのである。
 そのシーズンは、オールスターにも出場し、50試合に登板して4勝5敗31セーブ35SP。新人王に輝くとともに最多セーブと最優秀救援投手のタイトルも獲得した。

 しかし、1年目の投げすぎがその後の与田を苦しめることになる。翌1991年は、前年の疲れからか球威が落ち、ストッパーの座をルーキーの森田幸一に明け渡すこととなった。
 防御率は3.18ながら0勝3敗2セーブ。とても満足のいく数字ではなかった。
 それでも、翌年は、球威がある程度戻り、再びストッパーとして2勝5敗23セーブ、25SPを記録する活躍を見せた。
 だが、1993年以降、与田の剛速球は陰を潜める。そして、長く苦しい故障との戦いが始まった。右肘痛に悩まされた与田は、その後、自慢の球威を取り戻すことなく1996年にロッテに移籍する。だが、1軍登板のないまま2年で自由契約となった。1998年には日本ハムへテスト入団したものの1試合登板したのみでまたしても自由契約になり、2000年には阪神へテスト入団。現役生活に賭ける執念は、ファンの感動を呼んだが、ついには復活できないまま現役生活を終えた。
 通算成績は、8勝19敗59セーブ67SP。ストッパーとして活躍したのが実質2年間だっただけに通算成績は誇れる数字ではない。
 だが、あまりにも鮮烈な開幕戦デビューと日本最速となる157キロ達成は、野球における魅力の一つが一瞬の煌きであるとするならば、最高級の実績として永遠に人々の記憶に残るだろう。


 C幻の巨人軍最強四番打者 吉村禎章

 吉村禎章の故障は、試合中に起こった。1988年7月6日に北海道の札幌円山球場で行われた中日戦の守備の際である。
 吉村は、24歳だった前年に打率.322、30本塁打、86打点を叩き出し、ベストナインにも輝いていた。将来は原辰徳を抜いて不動の四番打者になるだろうと予想する者もいた。この年も当然のように3割30本塁打のペースで打ち続けている。
 この試合、吉村は、第2打席でプロ通算100号本塁打を放つ。25歳での通算100号到達は確かに将来性を感じさせるに充分なものがあった。このまま年間30本塁打のペースを続けるとしたら30代半ばで通算400号達成となる。さらに成績が伸びれば、通算500号、600号さえ……。
 そんな将来の展望が奈落の底に落とされてしまう故障が通算100号を放った試合で起きた。レフトの守備に就いていた吉村は、センター寄りのレフトフライを捕球した際、センターの守備に就いていた栄村忠広選手と激しく衝突してしまうのだ。衝突したというよりは、捕球しようとしていた吉村に横から飛び込んできた栄村が衝突したと言った方がいいだろう。
 いくら野球に怪我はつきものとはいえ、吉村の故障は、不慮の事故に近かった。この衝突により、吉村は、軸足となる左膝の靭帯4本のうち3本を断裂する。
 僕は、この不慮の故障を新聞の報道で知った。このときはそれほど深刻な事態だとは思わなかったのだが、その後、マスコミで「再起不能」とまで報道されたことによって、僕の記憶には深く刻まれることとなる。

 吉村は、その試合を最後に1年以上、僕たちの前から姿を消す。ロサンゼルスに渡ってジョーブ博士による執刀を受け、想像を絶する厳しいリハビリ生活を送ったのである。病院での診断により、吉村は重度の障害者認定も受けたという。
 1軍の試合復帰は、故障から423日後の1988年9月2日だった。ヤクルト戦に代打で登場し、セカンドゴロを放った。何とか走れるまでに回復していたが、吉村の膝が100%回復することはなかった。
 それでも、吉村は、1990年、スタメンだったり、代打だったりという起用ながら打率.327、14本塁打という好成績を残してカムバック賞を受賞する。パワフルでありながら安定したスイングと巧みなバットコントロールは健在だった。
 その実力を知らしめたのが9月8日のヤクルト戦だった。この試合で勝てば、巨人の連覇が決まるという重要な試合である。1977年以来連覇のない巨人にとって、久方ぶりの連覇達成となれば、硬くなってしまうのも仕方ない。だが、苦しいリハビリを耐えてきた吉村にはそんなプレッシャーなどゼロに等しいに違いなかった。延長戦となり重苦しい雰囲気の10回裏、吉村は、サヨナラホームランを放ち、巨人の2連覇を一振りで決めたのである。
 1992年にも打率.317、6本塁打とアベレージヒッターとしての能力をいかんなく発揮する。
 だが、松井秀喜や外国人選手の台頭もあって1990年代半ばから後半にかけては、ほとんど代打専門での起用が中心となった。
 1998年限りで現役を引退。通算149号に達していた本塁打は、あと1本で通算150号、すなわち故障後50本目となるはずだったが、ついには出ないままバットを置いた。

 吉村の1987年までの通算打率は.321、100本塁打。毎年首位打者争いをしていただけにあの故障さえなければ首位打者獲得は時間の問題だった。本塁打王も獲得できるパンチ力を持っていたから三冠王も夢ではなかった。あのまま行けば、1990年代前半の巨人の四番打者は間違いなく吉村だったはずだ。
 不慮の怪我は、吉村から大打者への道を奪い取って行った。しかし、再起不能とさえ言われた怪我から普通の人間ではとても耐えられないほどのリハビリを乗り越えて復活した姿は、怪我で苦しむ多くの人々に勇気を与え、衝突した栄村選手を救い、もう一度吉村を見たいというファンにも力を与えた。
 確かに吉村は、名球会に入るほどの大打者にはなりえなかった。しかし、もしかしたら大打者であることよりも難しいかもしれない大選手になった。その奇跡のようなカムバックは、いつまでも、重い怪我をする選手たちの大きな支えとなるに違いない。




(2005年8月作成)

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