奇跡を呼ぶ悲劇の球団
山犬
 
 悲劇の球団。
 そう呼ばれる球団が日本に一つだけ存在している。
 大阪近鉄バファローズである。
 近鉄という球団ができたのは1950年。プロ野球の2リーグ分裂と同時に近鉄の歴史は始まっている。
 しかし、栄光の歴史とは程遠い船出であった。
 加入が認められたのはパシフィックリーグ(パリーグ)。日本のプロ野球は、その名が示す通り、巨人・阪神が入っているセントラルリーグ(セリーグ)を中心に回っていく。
 近鉄は、1950年からそんなパリーグで4年連続最下位に沈んだ。1958年から5年連続最下位。1964年から4年連続最下位。1950年代と60年代だけで13回も最下位になったお荷物球団だったのだ。
 球界で「Aクラス」と呼ばれる3位以内に入ったのは1969年の2位が最初である。

 初のリーグ優勝は、さらに10年後の1979年である。
「優勝できるはずがない」
 そう酷評されていた球団に転機が訪れたのは1974年のことだ。名将西本幸雄の監督就任である。
 大毎で1度、阪急で5度のリーグ優勝を果たした西本幸雄を近鉄に招いて6年目にして、ようやく身を結んだわけである。
 そして、広島との日本シリーズでは素晴らしい好勝負を展開し、3勝3敗で第7戦を迎えた。その試合の9回裏、3−4と1点リードされた場面で近鉄は無死満塁のチャンスを得る。
 歓喜のときは近づいた。誰もがそう思っただろう。
 だが、それは近鉄にとって悲劇の前触れにすぎなかった。
 広島のリリーフエース江夏豊は、まず近鉄の佐々木恭介から三振を奪って一死とした。そして、次の石渡茂の打席で、近鉄の西本監督は、スクイズという作戦を立てた。
 最低でも同点にする作戦だ。しかし、江夏は、打者・走者の動作からスクイズを見破り、カーブで外すという常識破りの投球をした。三塁走者はタッチアウト。
 近鉄は、最低の結果すら出せなかった。
 気落ちした石渡は三振して、近鉄は敗れ去った。
 スポーツライター山際淳司が克明に描いた「江夏の21球」でよく知られている伝説である。
 翌年、再び近鉄はリーグ優勝して2年連続で広島と対戦し、3勝2敗と先に王手をかけたものの連敗し、またしても3勝4敗で敗れる。
 結局、西本幸雄監督は、監督として8度のリーグ優勝を果たしながら、1度も日本一になることができず、「悲運の名将」というレッテルを貼られることとなった。

 1988年、近鉄は、新たな局面を迎える。仰木彬監督の就任である。1981年に最下位転落して以降、近鉄は再び弱小球団に戻っていた。1987年も最下位。
 しかし、仰木監督は、他の監督と異なり、選手の個性を最大限に尊重した。若きエース阿波野秀幸や途中入団のブライアントらを巧みに使い、シーズン最終試合となる10月19日のダブルヘッダーで2連勝すれば王者西武を超えて逆転優勝というところまでこぎつけたのである。
 1試合目は1−3とリードを許していた近鉄が8回に村上隆行の2塁打で同点とする。9回には3−3から鈴木貴久がヒットを打ち、逆転となるかと思われたが、2塁走者佐藤純一は本塁憤死。その後、代打梨田昌孝の逆転タイムリーが出て、辛うじて勝利する。梨田は、この日限りで現役を引退することが決まっていた近鉄の名捕手である。
 ここで、この試合で起こった奇跡を整理しておきたい。
 まず、ダブルヘッダーでは1試合目は何があろうと9回で打ち切り、延長はなしと決められている。8回表に追いつき、9回表に逆転という試合展開は奇跡と呼ばざるを得ない。
 そして、9回表に佐藤が本塁でタッチアウトになった時点で普通なら近鉄に傾いていた流れは止まる。それでも、逆転を呼び込んだ奇跡。
 さらに、梨田が現役最後の打席にこうした重要な場面で登場し、しかもタイムリーヒットを打った奇跡。
 スタンドは、歓喜に包まれた。
 ナイターで行われる2試合目で勝てば優勝が決まるからである。

 騒然とした雰囲気で2試合目は始まったという。
 近鉄は7回表に3−1と逆転、その裏に追いつかれたものの8回表にブライアントの勝ち越しソロで4−3と再びリード。
 8回裏にエース阿波野がマウンドに上がったとき、近鉄のナインも観客も全国のファンも目の前のリーグ優勝を確信しただろう。
 しかし、ロッテの主砲高沢秀昭が何と同点のソロホームラン。
 打たれた阿波野は、マウンドに両膝をついたまましばらく立ち上がれなかった。
 4時間を超えたら新しいイニングに進むことはない。延長12回、時間無制限の現在とは違い、1993年まではそういう規定があった。
 近鉄に残された時間は、9回・10回の2回しかなかった。
 引き分けではゲーム差なしで優勝を逃してしまう。
 誰もが奇跡を待った。テレビは、急遽この試合を放映していた。
 そのため、僕は、その一部始終を目撃することになった。
 電車の窓から流れていく景色のように気楽に見られる試合ではなかった。正座をして両手を硬く握り締めて見る。そういう試合だった。ここまで緊張感を持って見たのは、僕にとってもこの日と1994年10月8日の中日×巨人戦の2試合だけではなかったか。
 期待とは裏腹に時間だけが過ぎていった。
 残念ながら、もうこれ以上の奇跡は起こらなかった。
 いや、引き分けであること自体が奇跡だったのかもしれない。
 敗北でないのに、現実は敗北でしかなかった。そんな試合は他にありえない。
 4時間という限定がなければ……。もっとテンポよく試合が進んでいれば……。
 時間は無情にも近鉄の歓喜を奪い取った。
 見ていてここまで虚脱感に襲われる試合はもう永遠に見ることはできないだろう。  

 よく似た奇跡というのが2年連続で起こるようなことはまずない。
 しかし、1989年は例外だった。どんな規則にも例外があるように。
 このシーズンの近鉄は、西武・オリックスとの三つ巴の壮絶な首位争いを繰り広げていた。
 そして、またしても追い込まれた状態で運命の10月12日を迎えることになる。
 4連覇中の王者西武とのダブルヘッダー。またしてもダブルヘッダーなのだ。
 信じがたいことに、逆転優勝するためにはまたしても2連勝が必要だった。
 僕は、この2試合を見ていない。スポーツニュースで知っただけである。テレビで放映されていたかどうかも知らない。   
 僕は、2年連続で奇跡が起こるなんて思ってもいなかった。おそらく誰もがそう思っていたのではなかっただろうか。
 ダブルヘッダーの1試合目は、序盤に西武が4点を先制する一方的な展開で進んだ。
 だが、奇跡は起こった。
 前年の途中まで中日の2軍でくすぶっていたブライアントがこの試合の4回に46号ソロ、6回に47号満塁アーチで5−5の同点に追いついてしまう。
 そして、圧巻は8回表。西武が慌てて出したエースの渡辺久信からブライアントは、48号逆転の勝ち越しソロを放ってついに6−5。
 3連発のブライアントは、試合の全6打点を1人で叩き出し、近鉄は、そのまま勝った。
 2試合目は、1試合目の勢いがそのまま乗り移っていた。
 もはや、昨年のニの舞は繰り返さない。
 ブライアントは、1試合目から続いて4連発目となる先制の49号ソロを放ち、あとは近鉄の猛牛打線が爆発するだけだった。14−4。
 この4打数連続本塁打は、プロ野球史上17回(2001年現在)しか起こっていない。それがこのような優勝を左右するダブルヘッダーで起こったことは奇跡としか呼びようがなかった。
 この時点でもう近鉄の実質上の優勝は決まっていた。2日後、近鉄は、ダイエーを破ってリーグ優勝を決めている。
 ここで、もしすべてが終わっていたなら、近鉄が背負ってきた「悲劇」にも終わりを告げていただろう。
 しかし、この話はまだまだ続きがあるのだ。

 リーグ優勝を果たした近鉄は、日本シリーズでセリーグの王者巨人と対戦することになった。
 前評判では圧倒的に巨人有利とされていた。が、始まってみると巨人は投手陣と主砲原辰徳の不調などで近鉄の勢いに太刀打ちできなかった。
 近鉄は、簡単に3連勝して日本一に王手をかける。
 このまま4連勝で日本一になる。
 誰もがそう確信したのではないだろうか。
 しかし……。
 事件は、第3戦終了後のヒーローインタビューで起こった。
 その試合で巨人打線を6回無失点に抑え、勝ち投手になった近鉄の加藤哲郎投手が
「巨人は、ロッテより弱いですよ」
 と発言したのだ。
 ロッテは、この年のパリーグで48勝しかできず、5位に大きく引き離されて最下位に甘んじていた。そのチームより弱いと加藤は、侮辱したのだ。ファンをあおる軽いジョークのつもりだったのだろう。しかし、その発言は、大きな波紋を呼んだ。
 インタビューのことを知った巨人の駒田・岡崎といった主力選手たちは激怒。
 第4戦では、その怒りを試合にぶつけ、4−0で巨人の香田が近鉄を完封。第5戦ではそれまでノーヒットだった巨人の主砲原が奇跡の満塁ホームラン。
 第6戦も巨人が勝って逆王手をかけた。
 そして、運命の第7戦。近鉄は加藤が先発した。
 だが、加藤は、駒田に先制ソロを浴び、あの発言に見られた自信はもろくも崩れていった。近鉄は、その後、原・中畑・クロマティといった巨人の主力選手に軒並み本塁打を浴びて5−8で敗戦。近鉄の3度目の日本一挑戦は、はかなくも幕を閉じた。

 あれから12年の歳月が流れた。近鉄は1999年・2000年と連続最下位。球団発足以来の通算勝率もパリーグ最下位。
 球団創設から半世紀を経て、また弱小球団に戻っていた。
 2001年も、ほとんどの評論家が近鉄最下位を予想した。
 ところが21世紀の声を聞いた途端、近鉄に奇跡は起こった。 
 落合打法を取り入れた中村紀洋が3冠王を獲る勢いで打ちまくり、来日6年目で完全に日本野球に適応したタフィ・ローズが驚異的なペースで本塁打を重ねた。この2人の打撃の完成は、周囲にも大きな効果を生んだ。磯部・川口・吉岡・大村といった若手から中堅にかけての選手が大きく成長した。
 それでも投手力は崩壊したままで、防御率4.98は、パリーグ最低だった。
 なのに2001年の近鉄は、点を取られる以上に取る野球ができる打力が整っていた。3月24日の開幕戦に10−9で勝利したのをはじめとして、5月29日の日本ハム戦では17−12というすさまじい乱打戦を制し、6月末には首位に立っている。
 8月、9月には投手が打ち込まれて首位陥落することもあったが、優勝を決めるまでの10試合を9勝1敗で乗り切るという驚異のラストスパートで優勝へ突っ走った。常識を超えた戦いぶりである。
 そして、リーグ優勝を決めた最後の2試合こそ、奇跡として後世に残るにふさわしいものだった。

 9月24日、マジック3で迎えた大阪ドームでの西武戦は西武が序盤に3点を奪って試合を優位に進めた。
 西武のマウンドには入団以来3年連続最多勝を確実にしている怪物投手松坂大輔がいる。
 西武は、この試合を落とせばもう優勝の望みが消えてしまう。
 そういう意味で、松坂は最後の砦であった。
 序盤は、西武の意地が近鉄を上回るかに見えた。
 だが、5回裏、奇跡を呼ぶ一発がライトスタンドに突き刺さる。ローズの55号本塁打だ。王貞治の記録達成から37年間誰1人追いつけなかった記録に肩を並べたのだ。
 奇跡への伏線は、整えられた。
 6−4と西武リードで迎えた9回裏、マウンドにはまだ松坂がいた。
 松坂が怪物と呼ばれるのは、単に球が速いからではない。完成された投手だからである。
 彼は、入団してきた当初から、既にどんな試合展開にも対応できる卓越した投球術と度胸と体力を兼ね備えていた。
 松坂は、2001年に15勝15敗という成績を残している。登板は33試合で完投が12である。完投数はダントツの1位。これは驚くべき結果である。
 なぜなら松坂は、ほとんどの試合で決着がつくまで投げているという事実が浮き彫りになってくるからである。
 監督をはじめとする首脳陣は、それほどまで松坂を信頼して、試合のすべてを松坂に託してきたのだ。
 だからこそ、3年連続最多勝という結果にも自然にうなずける。
 西武の運命は、松坂の肩にすべてかかっていたのである。
 疲れが出た松坂は、9回裏、1点を失う。だが、投手交代はない。2死でランナーを1人置いて中村を打席に迎えた。
 中村は、松坂の外角高めの直球をフルスイング。
 打球は、目で追うまでもなかった。信じがたいほどの飛距離を稼いで右中間スタンドの3階席に弾む劇的な逆転サヨナラ2ラン本塁打となった。
 この本塁打がシーズン45号。ローズの55号とあわせて、史上初めて同じチームの2人合わせて100号というとてつもない記録を打ち立ててしまった瞬間である。
 近鉄ベンチからは全員がグラウンドに飛び出し、中村はヘルメットを捨ててガッツポーズを繰り返した。
 あと1人というところから一転、敗戦投手となった松坂は、中腰で両手を膝にあててうつむいたまま、動こうとさえしなかった。
 
 2日後、マジック1で迎えた大阪ドームでのオリックス戦も苦戦を強いられた。オリックスのルーキー北川智規投手に7回途中まで近鉄は2点しか奪えなかった。因縁のようにオリックスの監督は、あの1988年、10.19を近鉄の監督として戦い抜いた仰木彬。この年限りで勇退することが決まっていた。
 現在の近鉄監督梨田昌孝は、あのとき選手として最後の打席に立っている。ともにあの伝説を戦った者が今度は優勝を賭けた勝負に相対することになったのである。因縁とは、かくも残酷なものなのだろうか。
 テレビではこの試合の中継はなく、僕は、巨人戦の途中に時折入ってくる途中経過で状況をチェックしていた。
 テレビは、近鉄の劣勢を伝えていた。しかし、7回に1点を奪って2−4としたとき、僕は、密かにもしかしたら奇跡が起こるのではないかという予感がした。それは、かすかな予感だった。
 いや、近鉄の歴史を知る者としての希望と言った方が正しいのかもしれない。
 テレビでは、大阪ドームが7回の1点で異様に盛り上がっていることが伝えられていた。
 それがテレビでの最後の途中経過だった。巨人戦の放送終了とともに、パリーグの試合経過は全く入ってこなくなる。それが日本の野球中継だ。
 僕は、しばらくしてから試合経過を知るためにインターネットにつないだ。インターネットは、リアルタイムでやっている試合結果を見るのには、テレビのニュースよりも適している。時代の恩恵だ。
 でも、そのときの僕の気持ちは、近鉄の敗戦を確かめるためというのが9割を占めていた。
 だから、「近鉄が優勝」という文字を見た瞬間は我が目を疑った。
 しかも、スコアを見て、僕は、それが間違いではないかと情報を疑った。
 9回表にオリックスが1点を追加して5−2としている。普通の試合なら、これは駄目押しの1点として相手チームの息の根を止める役割を果たす。
 しかし、9回裏に4点が入っている。あろうことか、満塁ホームランで。打ったのは代打北川。スコアはきれいにひっくり返して6−5。
 これらの事実を一つたりとも信じることができる者がいただろうか。
 代打逆転満塁サヨナラ優勝決定本塁打を放った北川博敏は、前年まで阪神にいた。しかし、その存在を知る者は皆無に近い。なぜなら阪神在籍6年間の通算成績は、打率.138、3打点。本塁打は1本も打っていない。2000年にいたっては7打数無安打である。2軍では選手紹介のアナウンスをしていた時期もあったという。
 これだけ見れば、いつプロ野球界から姿が消えてしまっても気づく者すらいなかっただろう。
 でも、気づかれないような部分に伏線はあった。
 北川は、2000年にウエスタンリーグで52試合に出場し、打率.369、8本塁打を記録していたのだ。かなりの好成績である。長打力にも定評があった。
 それに目をつけたのが近鉄だった。
 2001年、北川は、阪神から同じ大阪の近鉄に移る。
 そして、阪神で1本も本塁打を打てなかった男がこの年6本目の本塁打で近鉄をリーグ優勝に導いた。一度地獄を見た男は、このような場面で出てきても動じることすらなかったようだ。
 これほどまでに劇的な優勝をにわかに事実と受け止めることができなかった僕は、テレビのニュースで北川の本塁打の映像を見て初めて現実だったのだと信じることができた。
 代打逆転満塁サヨナラ本塁打は、過去5人が記録している。しかし、3点差をきれいにひっくり返したのは1956年の樋笠一夫(巨人)だけであり、それに加えて優勝決定本塁打となると当然ながら過去に前例はない。
 今後の歴史の中で起こる可能性すらほとんどないような奇跡の本塁打であったことに間違いはないだろう。

 2001年の日本シリーズで近鉄は、ヤクルトを相手に悲願の日本一へ向けて4度目の挑戦をする。
 近鉄は、果たしてどのような試合を僕たちに見せてくれるのだろうか。
 4度目でようやく12球団最後の日本一を達成し、「悲劇の球団」という異名を捨て去るのだろうか。それとも、今度も敗れて新たなる悲劇の1ページを刻み込むのだろうか。
 いずれの結果が出るにしろ、この日本シリーズは伝説となるよりほかにない宿命を背負っているのである。


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