無理があった選手兼任監督  
〜ヤクルト古田敦也選手兼任監督の2年間〜


山犬
 1.偉大なる挑戦

 古田敦也が選手兼任監督となったのは2006年のシーズンからである。選手兼任監督の実現は、古田の師匠でもある野村克也が南海で務めた1977年以来、何と29年ぶりだった。
 古田の選手としての実績は、打撃でも守備でも突出している。シーズン打率3割以上8回は、捕手として歴代1位であり、捕手としてシーズン盗塁阻止率1位10回という記録も歴代1位である。長打力こそ、野村に劣ってはいるものの、それ以外においては、野村以上とも言える実績を積み上げてきた。
 さらに、古田は、長年にわたって選手会で全選手を統括する役割を担ってきた。特に2004年に起こった合併騒動では、経営側が合併による10球団の1リーグ制という縮小化を図ったのに対して、猛然と抗議し、ついにはファンや選手たちの意見を結集してプロ野球史上初のストライキを決行するという英断を下した。それによって、プロ野球界は、縮小化をまぬがれ、楽天の新規参入も実現したのである。そんな卓越した統率力も持ち合わせる古田は、監督として最適の人物である。

 かつて、野村克也は、1970年に選手兼任監督に就任すると、1973年にはチームをリーグ優勝に導いた。監督就任が35歳になる年だっただけに、まだまだ選手生活も主砲としてやっていけた。事実、1970年には42本塁打を放っているし、優勝した1973年には打率.309、28本塁打、96打点という活躍を見せて、選手としても大きな貢献をしている。辞任した1977年も前期2位、後期3位というまずまずの成績で終えており、野村の選手兼任監督は、それなりに成功を収めたと判断していい。

 それだけに、私は、古田が選手兼任監督として、ある程度成功するのではないかという見方をしていた。しかし、現実は、厳しかった。2006年は、前年より1つ順位を上げて3位に食い込んだものの、2007年は、シーズン当初から下位に低迷し、ついには1986年以来となる最下位に沈んだのである。また、自らの出場試合数も激減し、結果的には選手生命までも縮める結果になってしまった。わずか2年でこのような結果が待ち受けていようとは、古田にとっても想定外だっただろう。私も、あの古田がここまで苦しむとは予想していなかった。

 考えてみれば、現在は、野村が選手兼任監督をしていた時代とは、かなり状況が変わってきている。野球が進化したことによって、より複雑に、そして細かくなった。選手をやりながら監督もする激務に、周囲から懸念の声があがっていたのも事実である。
 それでも、もし成功できるとすれば、現状では古田しかいなかった。それだけに、限りなく成功する可能性の低い道を敢えて選んだ古田は、偉大なる挑戦をしたと評してもいいのではないだろうか。


 2.選手兼任監督の歴史

 現在では、非常に珍しくなった選手兼任監督も、以前は、様々な球団がそういう体制をとっていた。
 特にプロ野球草創期である1940年代から1950年代にかけては、それが顕著である。戦前戦後の時期は、プロ野球の指導者という人材が不足していた。プロ野球創設までは、アマチュア野球しかなかったわけだから、プロ出身の指導者など存在しなかったのだ。かといって、プロのレベルに達したことのないアマチュアの指導者がプロの指揮、指導を行うというのも困難である。ゆえに、プロとしてある程度の成績を残したベテラン選手が選手兼任監督として指揮を執るという体制が多くなった。
 1936年創設のプロ野球は、1950年までに実に20人を超える選手兼任監督を輩出したのである。

 その中で有名なのが鶴岡(山本)一人、藤村富美男だろう。鶴岡の場合、1946年に30歳の若さで選手兼任監督に就き、その年に3塁や1塁を守りながら打率.314、4本塁打、95打点、32盗塁という卓越した成績を残してチームを優勝に導いた。それだけでなく、打点王とともにシーズンMVPまで獲得してしまったのである。
 驚くべきことに1948年の優勝時には2度目のシーズンMVP、1951年の優勝時には3度目のシーズンMVPを獲得し、監督業だけでなく選手としても獅子奮迅の働きを見せた。鶴岡は、後継の内野手が育ってきたこともあって1952年限りで現役を退き、監督専任となるが、選手兼任監督として7年のうち4度優勝という好成績を残したのである。

 一方、藤村富美男の場合、1956年に9回裏満塁のチャンスで審判に「代打オレ」と告げて、代打逆転満塁サヨナラ本塁打を放った話があまりにも有名だが、選手兼任監督として働いたのは1946年、1955年から1956年、1958年の4年間と短い。成績も2位が最高で、優勝を果たすことはできなかった。それでも、チームを安定してAクラスに入れており、監督としてはまずまずの成績を残したと言えるだろう。とはいえ、打者としては、1955年こそ打率.269、21本塁打したものの、翌年には打率.219、4本塁打に終わっており、監督業として優勝に導けない苦闘が打撃成績にも陰を落としてしまったと見ることもできる。
 
 1960年代から1970年代にかけても、野村を筆頭に、中西太や村山実ら一流選手が選手兼任監督として名を残した。
 中西太の場合、1962年から1969年まで選手兼任監督を務め、1963年には自ら打率.282、11本塁打を放ってリーグ優勝に貢献してはいる。だが、選手兼任監督就任時には既に手首の腱鞘炎に悩まされてフル出場は困難な状態にあり、兼任監督で選手としての成績がどの程度まで影響したかが計りづらい。

 村山実も、1970年から1972年まで選手兼任監督を務め、3年間で成績は2位が2回あり、失敗したという印象はない。ただ選手兼任監督をすることによって1970年に14勝挙げたものの1971年7勝、1972年4勝と落ちて行ったのは監督兼任の影響が見える。1972年にはシーズン途中で深刻なチーム状態を放っておけず、監督を金田正泰に譲って自らは選手専任となった。とはいえ、この年限りで選手としても力尽き、現役引退と監督退任という道をたどった。

 こうして見て行くと、1970年代までは、選手兼任監督が多く現れ、重労働ではあるが、鶴岡や野村のように一流の選手成績を残しながら監督としても実績を残した例も多い。しかし、当時でも、選手によっては、監督を兼任したことが影響して、明らかに選手生命が短くなったと言わざるを得ない選手も少なくない。

 野村が選手兼任監督を退任してから選手兼任監督不在のまま30年近くが経過したというのは、あまりにも長い空白としか言いようがない。1980年代、1990年代にどうして選手兼任監督が現れなかったか、不思議といえば不思議である。そんな長い空白の年月を経て、選手兼任監督をすることが可能かどうか、試してみる人物がどこかで必要だった。
 選手兼任監督というものを一度も見たことがない私は、小学生の頃、「自分がエースで四番を打ちながら監督をやってみたい」という大それた夢を抱いていた。引退してから監督をやって優勝できるのであれば、選手をやりながら監督をやってプレーと指揮の双方で優勝に導くことができるはずじゃないか、と理論上は考えられたからだ。
 私は、古田がそれを実現してくれることを望んでいた。しかし、結果は、残酷だった。


 3.選手兼任監督には無理がある

 古田にとって、兼任監督就任が選手生命を縮めてしまう結果になったことは否定できない。2006年、36試合出場22安打、2007年、10試合出場6安打。
 2004年には球団の合併阻止や新規参入を巡って多忙を極めながら、133試合に出場して打率.306、24本塁打、148安打を放った古田。それが選手兼任監督となったがために、選手専任であればありえない打撃成績を残すことになってしまったのである。

 2005年が終了した時点では、古田が監督就任を断り、選手専任でまだまだレギュラーとして活躍することは充分に可能だった。古田も、レギュラー捕手として活躍しながら、監督業を務めるつもりだったのかもしれない。
 野村克也のように、監督で主軸選手という状況を作り出すのが、古田にとって最善であったことも間違いない。
 しかし、野村とは、決定的に異なる点が2つあった。1つは、古田が監督に就任したのは野村より6歳上の41歳になるシーズンであって、レギュラーではあったが、既に前年に規定打席に到達していなかったこと。
 もう1つは、野村の頃と違って投手交代を頻繁にする必要があり、捕手をやっていてはブルペンの状況が把握できないことである。

 野村の時代は、優秀な先発投手が何人かいれば、パターンは決まっていた。先発投手が崩れたときは、大差がつけば2線級の投手を敗戦処理で投げさせる。僅差であれば、先発に次ぐ投手、もしくは先発要員を充てれば、それで良かった。野村が選手兼任監督としてリーグ優勝を遂げた年、山内新一が20勝14完投、江本孟紀が12勝12完投、西岡三四郎が12勝12完投、松原明夫が7勝6完投と、先発投手は、完投勝利が当たり前だった。野村は、当時からリリーフの重要性を考えて佐藤道郎をリリーフ中心で60試合に登板させてはいるが、それでも現在に比べれば格段に投手交代は単純だった。また、野手も、レギュラーが固まれば、試合をほぼ固定メンバーでやっていくことが多かった。

 しかし、現在では、投手の分業化が進んだ。長いペナントレースを勝ち抜くためには、鉄壁を誇る抑え投手と、2、3人の優秀な中継ぎ投手が必要である。野手も、それぞれの長所を生かすために、先発投手によって大幅に野手を入れ替えたり、中盤から終盤にかけては、相手チームの投手が替わる度に、めまぐるしく代打、代走と手を打たねばならない。終盤を逃げ切るには、守備固めをできるスペシャリストも必要となる。
 なのに、監督が長時間守備に就いていたり、打席や打席へ立つ準備に時間をとられていると、各選手の調子を把握し、試合の先を読んだ冷静な判断などできるはずがないのである。また、選手兼任が若い選手達への指導にも影響を及ぼしているにちがいない。
 2007年のヤクルトは、打撃陣はまずまずの成績を残せたものの、投手陣、守備陣の乱れが成績に陰を落とした。それは、現代野球で重視されつつある小刻みな選手起用や指導が成功しなかったことを意味しているのではないか。

 野村が選手兼任監督を務めた最後の2年間は、大きな方向転換を図っている。野村は、1976年、球界のエースだった江夏を抑え専任で起用して19セーブ、22SPの成績を挙げさせる。江夏は、初の最多セーブと最優秀救援投手に輝き、抑え投手の重要性を野球界に知らしめる革命を起こしたのである。
 野村は、1977年にチーム成績以外の騒動で解任となるわけだが、野村は、1976年、1977年と細かい野球への転換を図った。だが、この2年間の選手としての成績は、かなりの低調に終わる。既に選手兼任監督の限界が表面化していたのだ。
 そして、それ以降、30年近くも選手兼任監督が現れなかったのは、もはや進化していく野球に対応することが困難な激務となってしまったからだろう。

 古田は、自らの選手生命が短くなることも承知の上で、選手兼任監督を引き受けた。それは、30年近くにわたって誰も成し得なかったことへの挑戦意欲と、ファンの期待に応えたいという想いが結実したためだろう。2007年の古田は、シーズン当初からチームが低迷したこともあって、ほぼ監督専任状態で望んだシーズンとなった。その結果を見る限り、選手兼任監督は、失敗と言わざるを得ない。
 しかし、選手兼任監督としてファンの記憶には「代打オレ」くらいしか残せなかったかもしれないが、彼の挑戦は、確実に進化してきた野球を確認できたという意味で重要だったのである。私は、古田が最後の選手兼任監督として長く歴史に残るのではないかと予測している。




(2007年11月作成)

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