復興と復活 〜「がんばろう神戸」と平井正史のカムバック〜

山犬
 
  1.神戸のイチローと平井正史

 シアトル・マリナーズのイチローがデトロイト・タイガース戦で日米通算2000本安打を達成した。イチローは、1973年10月生まれだから2000本安打達成の2004年5月21日時点ではまだ30歳。
 日米通算ではあるけれど、2000本安打達成は日本人最年少記録となり、出場試合数でも日本人最速記録となる。
 何の足踏みもなくあっさりと2000本安打を達成してしまったイチローのニュースを見ながら僕は、1995年のオリックスを思い出していた。
 その年の1月17日、淡路島を震源とする稀に見る大地震が起こっている。神戸は、震源地なみの揺れを記録し、壊滅的な被害を受ける。のちに阪神・淡路大震災と名付けられるこの地震は、死傷者43,000人以上、510,000棟以上が全・半壊を含む損壊被害を受けた(2003年「消防庁まとめ」)。僕が住む地域(三重県)も、震源とかなり離れているにもかかわらず、震度4を記録した。僕は、その揺れで目覚めたことを未だに鮮明に思い出すことができる。まさかそのときは神戸があんな深刻な被害に遭っているとは考えもしなかったのだけど……。
 僕は、前年の1994年夏に神戸を訪れていた。イチローが連続試合出塁記録を継続していた8月のことだ。僕は、従来の日本記録をいくつも塗り替える勢いで打ち続けているイチローをどうしても一目見ておきたかった。それも本拠地、神戸市のグリーンスタジアムで。
 そのとき泊まった旅館では、やはりイチローが話題になった。
「どこへ行かれてたのですか?」
 夜遅くに旅館に戻った僕を不審そうに受付の従業員が尋ねた。
「グリーンスタジアム神戸ですよ。オリックスの試合です」
 ナイターで、しかも延長戦に入る熱戦だっただけに大幅に帰りが遅れたのだ。
「ああ。イチローですね。イチローのおかげで最近、遠くから野球を見に来るお客さんがたまにお泊りになります」
 神戸は、商業の街であり、港の街であり、お洒落の街でもある。グリーンスタジアム神戸へ行くだけのために遠くから泊まりで神戸を訪れる人はイチロー出現以前ならそんなに多くなかったのだろう。
 阪神・淡路大震災の数日後、その旅館が全壊したというニュースを僕は新聞で見た。一度訪れただけではあるけれど、僕には他人事には思えなかった。
 そのシーズン、オリックスは、神戸の復興への活力になるべく「がんばろう神戸」を合言葉に必死の戦いを続ける。
 その中心にいたのが打撃ではイチローだった。そこで、投手では?と考えたとき、僕は、平井正史の姿が浮かんできた。


   2.超高校生級投手
 
 平井が全国のお茶の間に登場したのは、1993年の春のセンバツ大会が最初である。150キロの豪腕ということで注目されたのだが、平井は初戦で試合巧者の常総学院高校に打ち込まれ3−9で敗れる。
 甲子園での勝利を期して戻ってきた夏は、初戦で三重海星高校と対戦する。僕は、地元の三重海星高校を応援するためにこの試合をテレビ観戦している。
 平井ががっちりした体から投げ下ろす直球は、伸びが素晴らしかった。変化球が生きる直球だった。テレビの画面から見ていても、その威力を窺い知ることができた。うなりをあげて、一本の線を引くように捕手のミットに吸い込まれていく球筋は、高校生とは思えない風格を持っていた。
「このピッチャーは打てんぞ」
 試合中盤になると、僕のそばで父がビール片手にうなった。
 それは、僕も試合を見始めたときから感じていたことだった。平井と投げ合っている三重海星高校のエースは、広田という投手だった。彼もまた三重県ではどの高校も打ち崩すことができない好投手で通っていた。三重県では他に肩を並べる投手など存在しないと言ってもよかった。
 でも、平井の投球と比べるとどうしても見劣りしてしまうのだ。その試合で、平井の直球は、MAX147キロを記録する。試合は5−1で平井の宇和島東高校が勝った。それほど大差がついているわけではないのに、試合はスコア以上に大差のついたゲームというイメージが残った。見ていて三重海星高校が勝てる気は最初から最後までしなかったからである。
 それほど平井の投球は、高校生離れしていたのだ。
 残念ながら平井は、2回戦で調子を乱して敗退してしまうが、僕の記憶には三重海星高校戦での豪快な投球が焼きついて離れなかった。


   3.逆指名制度施行年に逆指名制度が使えない高校生としてドラフト1位

 平井は、高校3年生の秋、「ダイエーへ入団希望」と報道されていた。しかし、指名したのはダイエーではなかった。この年から始まったドラフト逆指名制度でダイエーは、1位・2位の逆指名をとりつけたため、平井を3位以下でしか指名できなくなったのだ。
 逆指名制度は、選手の球団選択の自由を認めていながら、少し偏った制度になった。1つは、1位・2位で指名される選手だけに逆指名を認めること。もう1つは、逆指名を高校生には認めず、社会人と大学生に認めるということである。
 1位・2位で指名される選手だけに認めるというのならまだある程度の公平さが残る。しかし、高校生には認めないというのは明らかに不公平と言える。
 1位指名確実の大学生は行きたい球団を選べるのに、1位指名確実の高校生は行きたい球団を選べないのだ。
 1位か2位で指名されることが確実な高校生の平井は、大学生なら使うことができたであろう権利を黙って見ているしかなかった。
 ドラフト当日、逆指名枠が埋まってなかったオリックスが平井を1位で指名する。平井は、プロ入りするのかどうか注目を集める中、1994年1月にオリックスへ入団する。
 平井が入団した頃のオリックスは、阪急時代の1984年にリーグ優勝して以降、優勝から遠ざかっていた。Aクラスの常連ではあるのだけど、あと一歩のところで優勝に手が届かない。オリックスという球団名になって5年間、すべてAクラス入りしながら優勝は西武か近鉄にさらわれていた。
 今、思い返せば1994年は、オリックスにとって大きな転機だった。まず、近鉄で名将として鳴らした仰木彬が監督になった。
 仰木監督は、くすぶっていたイチローをレギュラーとして起用し、そのイチローがシーズン210安打という前人未到の記録を打ち立てることで一大ブームを巻き起こす。
 そんな年に平井は、ルーキーとしてシーズンの大半を2軍で過ごした。だが、その成績にも驚くべきものがある。シーズン6勝0敗、防御率2.62。言うまでもなく最優秀勝率であり、防御率もリーグ2位だった。
 9月には1軍の試合で登板するようになっている。8試合に登板し、15回を投げて1勝3敗ながら防御率1.80。
 2軍で格の違いを見せつけるピッチングを見せ続けていながら、1軍での登板をわずか8試合にとどめたのは仰木監督のある思惑からだった。
 1995年に平井が新人王を獲得できる実力の持ち主であることを見抜いていたのだ。
 仰木監督の思惑通り、1995年の平井は、飛ぶ鳥を落とす勢いで活躍することになる。ただ得たものは、新人王だけにとどまらなかった。


   4.がんばろう神戸

 1995年は、大きな衝撃とともに始まった。阪神・淡路大震災という残酷な天災のせいで、まるで廃墟と化してしまった神戸。
 平井の1軍定着生活の始まりは、過酷だった。
「野球なんかやってる場合か」
 そんな声があったのも事実である。プロ野球観戦は、日本でも有数の娯楽であるだけに、プロ野球選手をも娯楽の延長線上で野球をやってる人、ととらえる国民がいないわけではないからだ。
 それでも、大多数の国民は、オリックスに温かい声を送った。そして、神戸市民の多くがオリックスの頑張りに期待した。
 オリックスの勝利で復興に向かう神戸に活力を、という声が日に日に大きくなった。
 それでも環境はすぐに整うものではなかった。球団関係者の多くが被災し、崩壊した建物や麻痺した交通網の中では、練習も制限せざるをえなくなり、シーズンに向けての調整が難しくなった。
 オリックスは、市民と一体となることを決意し「がんばろう神戸」をキャッチフレーズに掲げる。
 その勝敗の命運を握る守護神となったのが平井だった。平井は、神戸を奮い立たせるような投球を披露する。
 53試合に登板して15勝5敗27セーブ、42セーブポイント、防御率2.32。まさに獅子奮迅の働きと言っていい。
 タイトルは、新人王にとどまらず、最多セーブ、最優秀救援投手、最優秀勝率まで手にした。セーブポイントはパリーグ新記録。勝利数もリリーフながらリーグ2位の成績だった。
 活躍したのは平井だけではなかった。打者ではイチローが2年連続首位打者を獲得し、打点王にも輝いてシーズンMVPに選ばれた。ニールは32本塁打で本塁打王を獲得した。投手でも長谷川滋利が12勝、星野伸之が11勝、野田浩司が10勝を挙げる活躍を見せた。
 これだけ各選手が活躍しただけにこの年のオリックスの強さは、圧倒的だった。82勝47敗という勝ちっぷりで前年までの常勝西武やバレンタイン監督のロッテを寄せ付けず、11年ぶりのリーグ優勝を果たすのだ。
 平井は、MVPこそイチローに譲ったものの、貢献度はイチローにもひけをとっていなかった。
 翌年も平井は、鈴木平とのダブルストッパー体制で5勝3敗6セーブ、11セーブポイントの活躍を見せ、リーグ2連覇に大きく貢献する。
 ただ、その2年間で神戸の期待を背負って肩や肘を酷使してしまったことで、平井の球威はその後、徐々に衰えを見せいく。


   5.苦闘から復活へ

 球威に衰えが見え始めた平井を首脳陣は、先発として再生しようとする。しかし、平井は、ツキからも見放されたかのように好投しても勝てない日々が続く。リリーフとの併用となりながら1997年は2勝、1998年には6勝1セーブ。 
 超一流の成績でデビューした豪腕投手は、並の成績を残す投手となり、1999年からはついに勝てなくなった。
 傷めた肩と肘は、容易には回復せず、平井は、4年連続0勝という無惨な結果を残すこととなる。いつしかプロ野球ファンからは忘れられた存在となっていた。
 そんな平井に光が射し込んできたのは、トレードという形だった。
 平井がオリックスに入団した1994年からリーグ2連覇を果たした1996年まで投手コーチとして共に神戸で戦ってきた山田久志が中日の監督として平井獲得に乗り出したのだ。
 山田久志は、平井のデビュー後3年間という絶好調時のイメージをずっと持ち続けていた。そして、平井が右肘の手術後、ほぼ絶好調時に近い状態にまで回復しているという情報も入手していた。
 最初、中日とオリックスのトレード話が持ち上がったとき、オリックスが交換要員として出してきたのは別の選手だったという。
 山田監督は、それを拒んでまで、平井獲得を希望する。危険な賭けだった。自らの独断で獲得する選手を決めた場合、山田監督は全責任を負わなければならなくなる。球威さえ戻っていれば必ず復活させられる、という確信がなければできない希望。山田監督は、かつて自らを2連覇という栄光に導いてくれた男にすべてを託そうとしたのだ。
 山田監督は、平井の球威がかなり戻ってきていることを確かめると、崩れていたフォームを矯正して中継ぎの柱として起用する方針を定めた。
 150キロの直球が投げられるまでに回復していた平井は、中継ぎで素晴らしい働きを見せる。そして、シーズン半ばになると、山田監督は、崩壊しつつあった先発投手陣を立て直すために中継ぎ陣の誰かを先発に回す決断が必要となった。苦境に陥った山田監督が白羽の矢を立てる人物は、もはや明らかだった。平井である。
 平井は、先発でも驚くべき適応力を発揮する。シーズン後半にはエース級の働きを見せ、最終的にはシーズン12勝を挙げるのだ。
 山田監督は、そのシーズン半ばにして成績不振を理由に解任の憂き目に遭うが、平井を再生させた手腕は高く評価され、一時はそのままオリックスの次期監督に、という話も持ち上がった。
 平井も、見事にカムバック賞を受賞し、2004年からはエース級投手としてタイトルも期待される存在になった。あたかも神戸復興の様子を再現しているかのような復活に映る。僕は、どうしても神戸と平井を重ね合わせてしまうのだ。
 平井も、イチローも、神戸を離れはしても、「がんばろう神戸」とともに神戸で輝いたままの姿で輝きを放っている。その姿は、大震災を風化させつつある世間への一つの警告ではないのだろうか。まだ神戸は完全に復興したわけではないし、残された傷跡は容易に癒えるわけではない。
 僕も、そして国民のすべても、阪神・淡路大震災を時の流れのせいにして忘れてしまってはならないのだ。平井やイチローの活躍から阪神・淡路大震災を、そして「がんばろう神戸」を思い起こす人は、少なくないはずである。だから、僕は、平井が先発投手としてタイトルを獲得する日を心待ちにしている。平井には、いつまでも「がんばろう神戸」を思い起こさせてほしいのだ。




(2004年5月作成)

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