野球の未熟なルールに改正を  〜WBCでの2度に渡る誤審問題〜

山犬
 
 1.野球の魅力と未熟さを見せてくれたWBC

 2006年3月21日、日本が第1回WBCで優勝を果たし、野球世界一の称号を手に入れた。日本の盛り上がりぶりは準決勝となった3度目の日韓戦、決勝のキューバ戦で頂点に達し、あの日韓共催のサッカーW杯に匹敵するほどだった。
 その反面、アメリカは、準決勝にさえ進めず敗れた。圧倒的な実力を誇示するはずが世界のベスト4にすら入れなかったのだ。
 野球ファンの多くは、アメリカの優勝を予想していたに違いない。
 まさかWBCの2次リーグでアメリカが敗退してしまうなんてことはありえないはずだった。
 それがふたを開けてみれば、韓国とメキシコに敗れ、もし誤審がなければ日本にも敗れて0勝3敗になっていたという惨敗である。
 メンバーは、出場辞退者が出たとはいえ、超一流大リーガーを揃えたドリームチームである。打撃陣は、メジャーを代表する大砲をずらりと揃え、投手陣も、メジャーで素晴らしい実績を誇る。
 大砲ばかりを揃えた豪華打線。実績を備えた投手陣。どこかで聞いたようなフレイズである。
 それは、日本で言えば巨人の代名詞ではなかったか。
 大砲ばかりを揃えた打線と実績を備えた投手陣で、巨人は、ここ最近ずっと優勝し続けているだろうか。

 逆に韓国は、まだ野球のレベルがアメリカや日本に遅れをとっていると見られてきた。おそらくアメリカのパワーや日本の技術には及ばない面が多いからだろう。
 だが、韓国は、多くの野球ファンの予想を覆して1次リーグ、2次リーグと勝ち続け、6戦全勝で準決勝に勝ち上がったのである。
 韓国も、プロ野球選手のドリームチームである。大リーグで活躍する選手や日本プロ野球で活躍する選手を招集した。
 だが、皮肉なことに韓国は、それが程よくバランスのとれたいいチームに仕上がったのである。
 個人の力の結集が必ずしも、チームの総合力を高めるわけではない。
 そういう意味で、WBCは、野球の面白さを存分に引き出してくれたと言える。

 日本は、幸いにもルールに救われて準決勝進出を果たし、それを優勝に結びつけたが、一時は一つの誤審によって2次リーグ敗退の危機に瀕していた。
 それは、野球というスポーツそのものが国際試合としてまだ未熟なのだということを露呈した象徴的な出来事だった。


  2.確実に決勝へ進もうとしたアメリカ

 大リーグ機構が中心となって運営したWBC第1回大会は、アメリカが主導となった。そのため、アメリカは、優勝候補の前評判の高いドミニカと、アマチュア最強で真の実力が未知数のキューバとは決勝まで対戦しない位置を確保したのである。
 そんな恩恵を受けてアメリカは、1次予選でカナダに敗退しながらも何とか2次リーグに進出し、2次リーグでもメキシコ、日本、韓国といった超一流大リーガーの少ないチームとの対戦になったのである。
 おそらくアメリカは、容易に3連勝で2次リーグを突破し、準決勝でもメキシコ、日本、韓国のうち勝ち上がった1チームを軽く破って決勝へ進む青写真を描いていたに違いない。

 だが、アメリカは、2次リーグ初戦の日本戦で思わぬ苦戦を強いられることになる。
 イチローの先頭打者本塁打で先制した日本が序盤で3−1とリードを奪ったのである。ようやくアメリカが追いついたのは7回裏だった。そして、問題の8回表は1死満塁で起こる。
 岩村明憲が放ったレフトフライは、犠牲フライとなるに充分な距離があった。そして、俊足の西岡剛は、レフトのグラブにボールが収まった後、タッチアップをする。悠々生還した西岡に対して3塁付近にいた2塁塁審はセーフの判定をした。
 しかし、アメリカ側の不可解な抗議によって、球審のアメリカ人ボブ・デービットソンは、不可解にも判定をアウトに変えてしまったのである。三塁走者のタッチアップの判定は、球審が下すことになってはいたものの、確実なセーフをアウトと判定するなんてことは、権威の濫用以外の何ものでもない。
 それでも、審判は、無条件に最大の権威を持つ。それが野球なのである。
 どれだけビデオがその不正をしっかり映し出していたとしても、審判の自国えこひいき判定の前には無力となる。

 確かに一つ一つの際どいプレーにビデオ判定を持ち込んでいたら、ただでさえ長い野球の試合がますます長引いてしまう。だから、審判の目に判定を委ねるより仕方ないところは理解できるのだが、1人の審判に最大の権威を与えてしまうことに僕は疑問を感じる。
 ボブ・デービットソンは、このとき、完全な独裁者となっていた。権威を持つ以上、その暴走を止めるだけの権威を持つ存在がなければ、どこまでも暴走してしまえるのである。
 姑息な判定でリードを許さなかったアメリカは、9回裏にサヨナラ勝ちして何とか野球王国の面目を保った。だが、アメリカの破綻は、既にこのとき始まっていたのである。

 日韓戦になるとライバル心むき出しとなる韓国も、アメリカの横暴に憤慨し、日本が被った誤審には同情していた。それは、韓国とメキシコも、同じ条件下で戦わなければならないということの裏返しでもあった。
 奮起した韓国は、アメリカに圧勝を果たす。そして、メキシコは、アメリカ戦で日本と同じように誤審による被害を受ける。3回裏、メキシコは、バレンズエラがライトポールを直撃する本塁打を放ったものの、それを判定するのがまたしてもアメリカ人審判ボブ・デービッドソンだったのである。彼は、誰の目にもポールに直撃していたのが明らかなのに2塁打と判定した。
 それがメキシコの闘志に火をつけた。アメリカ国内でメキシコ人は、まだ根強い差別を受けているとされている。その怨念が乗り移ったかの如く、超一流大リーガーを揃えたアメリカに勝ってしまったのである。
 かくしてアメリカは、世紀の誤審2つと2次リーグ敗退という屈辱を残してWBCの舞台から去った。
 結果としてアメリカが世界に知らしめたのは、審判の権威というものだった。しかも、短所の部分だけを……。


 3.アメリカ人審判の誤審

 2度に渡るアメリカ人審判の誤審で王貞治監督は、おそらく現役時代を思い起こしてしまったに違いない。
 1974年11月に後楽園球場で行われた世紀のホームラン競争である。日米野球の特別企画として、日本とアメリカの最強ホームランバッターが1対1で勝負を繰り広げたのだ。
 アメリカから来日したのは、その年の4月に大リーグでベーブ・ルースの通算本塁打記録を抜いた大打者ハンク・アーロンだった。一方、迎え撃つ日本は王貞治である。王は、この年、2年連続三冠王に輝いており、絶頂期を迎えていた。

 日米野球第6戦の試合前、ついに世紀のホームラン競争が始まった。
 ルールは、1イニングにつき5本のフェアゾーンへ飛んだ打球を4イニング、つまり計20本の打球により判定されるというものである。
 さすがに双方とも歴史に名を残すスラッガーとあって2イニング目まで両者6本塁打ずつと全くの互角の勝負を演じる。
 勝負の行方は、全く予想がつかない。
 もし、大リーグ最強打者が日本人選手にホームラン競争で敗れてしまったら、大リーグの面目が丸つぶれとなる。おそらくアメリカ側にはそんな懸念が芽生えていたに違いない。

 3回表、王の2打球目はライトのポールを巻く本塁打となった。
 しかし、このとき主審を務めていたのは来日中のアメリカ人審判ペレクーダスだった。
 ペレクーダスは、王の本塁打をあろうことかファールと判定。打ち直しを命じたのである。動揺した王は、この回1本塁打に終わり、3回裏に3本塁打したアーロンに2本差をつけられたのである。
 さらに4回表の3打球目も本塁打だったもののペレクーダスはまたもファールと判定し、王は4回を2本塁打で終わり、合計9本塁打。
 3回までで9本塁打していたアーロンは負けがなくなった状況で4回裏に1本塁打し、世紀のホームラン競争は、極めて後味が悪い形でハンク・アーロンが10−9で勝利したのである。
 紳士的な王は、その判定に対して抗議しなかったため、王の心情は藪の中だが、彼が抗議しなかったのは、試合ではなく、日本中のファンを喜ばせるための粋な催しだったことやハンク・アーロンへの敬意などがあったためだろう。
 だが、王は、誰の目にも明らかなアーロン超えを果たす。王は、翌年以降も日本のプロ野球で本塁打を量産し続け、1977年にはハンク・アーロンが達成した大リーグ記録の通算755本塁打を破り、引退するまでに通算868本塁打という不滅の金字塔を打ち立てたのである。

 王とアーロンのホームラン競争から分かることは、アメリカ人がアメリカという国に対して持っている愛国心の強さである。大リーグが世界一であるという自負。そこでプレーする最高の選手が日本人選手に負けるわけにはいかない、負けるはずがない、という想いがルールさえも捻じ曲げてしまうのだ。
 そう考えれば、第1回WBCの2度に渡るアメリカ人審判の誤審も理解できる。それは、王が現役だったときに経験した世紀のホームラン競争の時代から根付いてきたことだったのだ。
 いずれも、審判の権威というアメリカがルールに基づいて正確に守り続けてきたものを逆手にとった悪質なやり方だった。
 第1回WBCで世界中に放映された不可解な判定は、その悪質さゆえに、世界へ審判の権威そのものに対する疑問が芽生えてしまう結果を生んだのである。


 4.ディミュロ審判の来日と緊急帰国

 審判の権威を語る上で忘れてはならないのがマイケル・ディミュロ審判の招聘だろう。
 日本のプロ野球に初めて外国人審判を招くという画期的な試みが1997年にあった。1996年オフのセリーグ監督会議で各監督から審判への不満、不信感が出た時、巨人の監督だった長嶋茂雄が提案したもので、ルール遵守に厳しいアメリカ流の判定を学び、日本の野球水準の向上させることを目的としていた。
 そうして選ばれたアメリカ人審判が3Aにいたマイケル・ディミュロだった。だが、その試みは、試合中の判定を巡って騒動となり、悲劇的な結末を迎えることになる。

 発端は、5月17日の阪神ーヤクルト戦から始まった。ヤクルトのブロス投手のタッチプレーをめぐって、阪神の吉田義男監督が通訳抜きで5分間、ディミュロに抗議をしたのだ。このとき、ディミュロは、吉田の遅延行為、そしてディミュロの腹を突いた暴力行為によって吉田を退場処分とする。試合後、ディミュロは、通訳を追い返しての執拗な抗議と審判の体に触れたこと、そして、多くのコーチが出てきたことに対して、激しい憤りを表した。
 しかし、こうしたことは、日本では日常的に起きていることであり、問題にもされてこなかった。監督はもちろん、コーチ、選手に至るまで公然と審判の判定に抗議するのが慣習となっている。日本では野球協約で禁止されているにも関わらず、審判と私語を交わす選手やコーチがいる。いわゆる馴れ合い体質が日本には根付いていたのである。

 最大の悲劇は、6月5日の中日ー横浜戦で、外角球をストライクと判定された中日の大豊泰昭がディミュロ審判の判定を不服として執拗に抗議したところから始まった。
 大豊のあまりの剣幕に身の危険を感じたディミュロ審判は、大豊を退場処分にする。だが、怒った大豊は、ディミュロの胸を数度突き、ベンチから飛び出してきた中日のコーチ達と共に、ディミュロを取り囲み、バックネット近くまで追い詰めたのである。
 こうしたことにショックを受け、日本でやっていく自信をなくしたディミュロは、翌日、辞意を申し入れる。一度は慰留されたものの、今度はディミュロの派遣を決めた大リーグ側から帰国を指示され、来日してわずか3ヶ月で帰国することとなった。

 ディミュロは、アメリカ流のストライクゾーンで毅然とした判定を行い、ボークも厳しく判定した。 アメリカ野球が世界標準である以上、日本が国際化に対応するためにはアメリカのストライクゾーンやボークの基準を学ぶ必要はあったし、審判の持つ絶大な権威も学ぶ必要があった。
 当時、僕は、ディミュロ審判の帰国に衝撃を受け、日本が国際化への扉を自ら閉ざしてしまったと落胆した。
 だが、それは、今考えてみれば、日本は、国際化への扉を閉ざしてしまったのではなく、アメリカ化への迎合を拒んだだけだったのではないだろうか。
 第1回のWBCで起こった悪意ある2度の誤審を見たとき、僕は、審判に絶対的な権威を与える野球のルールにこそ、問題があるのではないかという疑問に行き着いたからである。


 5.課題となるルール整備

 確かに最も野球のレベルが高く、歴史が長く、人気もあるのはアメリカである。世界中の野球選手が最高の舞台として憧れるのはアメリカの大リーグである。
 だから、国際的な大会となれば、アメリカ流の野球がそのまま世界標準となる。
 アメリカは、自らが遵守する野球のルールを第1回WBCで悪用して勝ちにこだわろうとした。
 中継するテレビが何度もVTRで審判の誤審を鮮やかに映し出しても、判定は覆ることはなかった。もし日本流の野球が世界標準になっていたら、これだけの誤審が起きれば、選手が激昂して審判に詰め寄り、監督が長時間抗議して、それでも判定が覆らなければ試合放棄さえも辞さない状況になっていただろう。日本も、アメリカと同様に野球規則には審判の絶大なる権威が記してある。
 『公認野球規則』(2002年)の九・〇二「審判員の裁定」にはこんな記述がある。
「(a)打球がフェアかファウルか、投球がストライクかボールか、あるいは走者がアウトかセーフかという裁定に限らず、審判員の判断に基づく裁定は最終のものであるから、プレヤー、監督、コーチ、または控えのプレヤーが、その裁定に対して、異議を唱えることは許されない。
(b)審判員の裁定が規則の適用を誤って下された疑いがあるときには、監督だけがその裁定を規則に基づく正しい裁定に訂正するように要請することができる。しかし、監督はこのような裁定を下した審判員に対してだけアピールする(規則適用の訂正を申し出る)ことが許される。」
 だが、アメリカはこうしたルールを遵守し、日本では暗黙の了解によって有名無実化しているのだ。

 これらの状況から分かるのは、審判に絶大な権威があるということ自体がおそらくルールとして完璧ではないという実情である。
 それでは、完璧な判定を行うにはどうしたら良いのか。撮影技術が進んだ現代では、最も信用できるのはビデオとなる。

 日本には古来のルールを覆すかのようにビデオ判定を取り入れた競技がある。日本の国技である大相撲だ。野球で言えば球審に当たる行司は、相撲の勝負について判定を下す立場にあるが、判定が微妙な場合、土俵下の四隅に座っている審判委員が行司抜きで協議して決める。
 だが、それでも判定が下せない場合は、ビデオによって判定する。行司よりも審判委員の方が権威を持ち、さらにそれよりもビデオの方が権威を持っており、微妙な判定は一人で決めず大勢で決める仕組みになっている。

 1試合の中で選手や監督に疑問を抱かせるほど微妙な判定はそれほど多くない。それなら野球も、古くからあるルールをそろそろ改正する時期に来ているのではないだろうか。
 判定に主観が入って公平でなくなる競技は、もはや競技として成立しえない危機にさらされてしまう。
 冬のオリンピックは、審査員による採点競技が多く、さまざまな競技で物議を醸す。それは、まだ採点に審査員の主観が入ってしまう余地があり、時に公平さを欠くというルール上の未熟さがまだ存在しているからにほかならない。
 野球のルールも、まだまだ国際化を想定していない時点で作られたものであるがゆえに、未熟さがあるのは否めない。
 判定を公正にするための改正だけでも、球審抜きの審判員協議やビデオ判定の導入という基本的なルールの改正と、国際試合では対戦該当国以外の第三国の国籍を持つ審判が務めるといった国際ルールの作成も必要である。
 野球が国際的な競技として進化を遂げるためには、WBCで顕著になった誤審問題を契機に野球のルールを整備して行くことこそ重要な課題なのである。





(2006年3月作成)

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