10年目の新人と運命

                      山犬

 2000年10月13日、オリックスの戎(えびす)信行投手は、西武との最終戦に先発し、6回を1安打無失点で投げ終えたところでマウンドを降りた。スコアは、0−0。
 これ以上ない投球を見せていた戎がここで降板する理由は普通に考えればない。だが、この日の6イニング目は、戎にとっても、今年のプロ野球界にとっても重大な意味を持っていた。
「順位は関係ありません。(記録として)自分の名前が残ることが嬉しい」
 戎は、試合後、こう語っている。

 戎信行の名前が始めて登場したのは夏の甲子園第72回大会。兵庫県の育英高校を24年ぶりに甲子園に導いた。140キロを超える重い速球で「怪腕」と騒がれている。
 しかし、このときは後に阪神に入団する好投手中川を擁する秋田経法大付属に延長の上、サヨナラで初戦敗退している。
 僕には、なぜかこの試合をブラウン管を通して見ていた記憶がある。そのときの僕の記憶が正しければ、彼は淡路島出身だと思う。このとき投げ合った中川は、プロでは活躍することができずにやめている。
 そして、1990年末のドラフト会議で地元オリックスの2位指名を受けて入団。背番号は30。オリックスは、あの当時から戎にかなりの評価を与えていたことが分かる。でも、そのときの1位が何と現在大リーグで活躍する長谷川滋利。長谷川は、一年目から12勝をあげて新人王に輝く。
 対照的に戎は、一軍で登板することなく1年目を終わる。
 
 次に戎が表舞台に現れたのが1994年。戎はその年のウエスタンリーグで8勝して最多勝のタイトルを獲得し、リーグ優勝にも大きく貢献。さらにジュニア選手権でMVPを獲得している。一軍初登板も果たしている。
 だが、この年は、すい星のように現れたイチローが前人未到の210安打を放ち、一軍のオリックスもリーグ優勝。またも、その陰に隠れて注目を集めることはなかった。
 悲運にもそれ以降、戎は一軍に上がってもすぐに二軍に落とされるという生活が続くことになる。もちろん、勝利をあげることはなかった。
 いつしか気付けば、入団後、ほとんどが二軍生活のまま、9年がたっていた。知らないうちに戦力外選手として自由契約になっても仕方のない身。
 それでも、転機の予感は確実に訪れていた。
 1999年2月、オリックスは、イチロー、星野伸之、戎信行の3人を米国メジャーリーグのシアトル・マリナーズの春季キャンプに送りこんだ。イチローは言わずと知れた球界一の打者、星野も通算150勝以上(1998年終了時)の大投手である。その二人と一緒にプロ通算ゼロ勝の戎が選ばれていたのだ。
 仰木監督を始めとするオリックスの首脳陣は、確かに戎の秘められた力に注目していた。この事実は、今から考えるとオリックス首脳陣の驚異の眼力を認めざるを得ない。

 そして、運命は10年目を迎えた2000年に一気に動いた。
 シーズン当初は、敗戦処理をするだけの役割だった。背番号も以前の30ではなく65になっていた。
 しかし、序盤は首位を独走し、磐石の投手陣と思われたものの、エースの小林、若い杉本友が不調に陥り、さらにブロウズ、カルロスといった外国人投手も次第に打ちこまれるようになる。そして、ローテの一角を担っていた金田、川越が相次いで故障でチームから離脱する。
 地道に敗戦処理で好投していた戎は、皮肉にもチーム内部の投手陣崩壊から先発投手に昇格し、またたく間に3連勝。プロ9年間で1勝もできなかった戎はエース格になった。
 幸運はそれだけで収まらなかった。故障でオールスター辞退を余儀なくされた同僚の川越に代わって初出場。プロ10年目にして新人賞を獲得する。おそらくこれは新人賞最年長記録ではなかろうか。
 オールスター後も、順調に勝ち続けた戎は、最終的に8勝2敗を記録という記録を残した。
 10月13日の最終戦では6イニングを投げ終えて、ついにシーズンの規定投球回に到達。防御率は3.27で1位に踊り出た。
 プロ9年間、2軍でくすぶりつづけた戎が10年目に最優秀防御率のビッグタイトルを手にしようとしている。

 彼の投球には150キロの快速球も落差の大きなフォークもない。持ち味は、重い速球と切れ味鋭いシュート、そして最近投球の幅を広げるために覚えたシンカー。打たせて取るピッチングである。
 その投球は、かつての東尾修や西本聖を彷彿とさせる。四球は規定投球回に達した投手の中で最も少ないが、死球は2番目に多い。それは、シュートとシンカーの鋭さと絶妙のコントロールで内角の厳しいところをつける実力を物語っている。
 防御率3点台でタイトル獲得なんて評価できない、という者もいるだろう。確かに彼の防御率はセリーグでは9位にしかならない。
 でも、彼のタイトル獲得を幸運と呼ぶのは間違いだと僕は思う。彼は、ひたすら10年間、この時期が来るのを信じてニ軍で投げ続けていた。いつしか一軍で通用する力が付いていても、それを試される機会に恵まれていなかった。これは、幸運ではなく不運であろう。そういう不運の中でわずかなチャンスを生かしてタイトルを獲得したことは立派の一言に尽きるだろう。
 そう考えると、プロ野球界には登板機会を与えられずに消えて行った投手が意外に多いのではないだろうか。彼のように一軍と二軍の中間にいて一軍での登板機会に恵まれなかった投手や二軍でなかなか試合に出してもらえない投手。彼らは、十分な投球機会を与えられれば、好成績を残していくかもしれないし、徐々に育っていくかもしれない。
 プロ野球のチームは、目先の一勝を目指すあまり、若い才能の芽を摘み取り、最初から実力を評価された者だけ使いすぎてはいないのだろうか。快速球がないから、落差の大きいフォークがないからといった理由で。
 もしかしたら、そういったことはどの分野においても現実にありうるのかもしれない。
 戎がオリックス以外のチームにいたら、5年くらいで解雇されていても不思議ではない。
 戎の登場は、野茂とイチローを世の中に送り出した仰木監督の元にいたからこそでもある。人々は、仰木監督の奇抜な発想を仰木マジックと呼ぶ。間違いなく戎の快挙もそれの一つに数えられるだろう。仰木監督と野茂、イチロー、戎。不思議な縁が続いたものである。
 縁と言えば、戎は、この他にも不思議な縁を持っている。あの篠原信一が育英高校の同級生だという。篠原信一とは今年「最も金メダルに近い男」と言われた柔道家である。シドニー五輪では決勝で見事な内股透かしを決めながら誤審で銀メダルに終わった悲運の男。高校時代には何度も一緒に食事をしたという。
 その二人が2000年、突如注目され、片方は悲運の英雄、もう一方は悲運から抜け出して英雄となった。
 そして、またも、と言っていいかもしれない。戎が6回投げて最優秀防御率獲得をほぼ決めた試合は、大リーグ挑戦の壮行として9回に登場したイチローに隠れて小さな扱いとなった。
 偶然にしては重なりすぎている運命。長いプロ野球史の中にはこんな理解不能な出来事があることは知っておいてもいいだろう。 



Copyright (C) 2001 Yamainu Net 》 伝説のプレーヤー All Rights Reserved.

inserted by FC2 system