道頓堀川、世界の舞台へ 〜大阪×東京の構図〜
   山犬

「夜、幾つかの色あざやかな光彩がそのまわりに林立するとき、川は実像から無数の生あるものを奪い取る黯い鏡と化してしまう。不信や倦怠や情欲や野心や、その他まとわりついているさまざまな夾雑物をくるりと剥いで、鏡はくらがりの底に簡略な、実際の色や形よりもはるかに美しい虚像を映し出してみせる。だが、陽の明るいうちは、それは墨汁のような色をたたえてねっとりと淀む巨大な泥溝である。」
 宮本輝が名作『道頓堀川』(新潮文庫1994)でそう表現した道頓堀川は、大阪にある。
 1612年に豊臣家家臣の安井道頓が東横堀川・木津川間の水上交通のために造り始めた人工の川、つまり運河である。
 しかし、道頓堀川は、施工当初から波乱含みの道のりを歩む。徳川勢に攻められた大阪は戦場となり、道頓堀川の完成を待たず、道頓は大阪夏の陣で討死。
 従弟の道朴が道頓堀川を完成させている。
 施工責任者が討死する、という悲劇的な事件で始まった道頓堀川の歴史。それは、現在の道頓堀川の位置づけをも暗示している。

 阪神タイガースのエースとして全盛期を過ごした江夏豊は、大阪と東京の関係に通じる興味深い発言をしている。
「関西人の阪神タイガースへの想いは、昭和時代に始まったのではない。関ヶ原合戦時代からアンチ江戸として根付いているんですよ」(『遅咲きの人間学』近藤唯之 PHP文庫2001)
 関ヶ原の合戦により、大阪城に本拠を置く豊臣家は滅亡の道を歩み始め、大阪夏の陣での大阪城落城とともに大阪は、歴史の表舞台から姿を消した。以後、現在に至るまで歴史は、東京を中心に回っていくのである。
 道頓堀川周辺は、本来なら天下の大阪城下町の中心となるべきところをすべて東京に持っていかれてしまう。敗北の屈辱的な歴史を道頓堀は背負って生きていくことになった。
 その後、1626年に道頓堀川両岸に芝居小屋や遊所の設置が認められたことから、徐々に歓楽街として繁栄し、今に至っている。

 昭和の道頓堀川を描いた宮本輝の『道頓堀川』は、その地に住む人々をこのように描いている。
「この道頓堀で武内が知り合った数多くの人間たちは、みな相貌の奥に、生まれついてたずさえているとしか言いようのない、ある共通した貧しさを持っていた。その貧しさがいつか必ず自分を裏切る者しか愛せなかったり、自分を不幸におとしめていく者としか友人になれなかったりさせるのだった。そうした人間同士が、好むと好まざるとに関わらず結びついて流れていくさまを、武内はもういやというほど見てきたのである。」
 そこには社会の中心から弾かれた暗い部分を持ちながら、暗くても流れに任せてひたむきに生きざるをえない人々の悲しいまでの宿命が描かれている。
 道頓堀川の黒く淀んだ水とどんよりとした流れは、その地に住む人々の、さらには大阪の人々の歴史上の鬱積した感情にぴったり合致するのだ。
 人々は、日常の様々なストレスからの解放を求めて歓楽街へ流れる。それに加えて大阪の人々は、東京への対抗として感情の発散を求めたがる。
 阪神×巨人戦は「伝統の一戦」として大阪では過剰なほどの盛り上がりを見せる。それは、プロ野球開始と同時にライバルとなったチーム同士の戦いであると同時に、いつも関東に抑えつけられている関西の誇りを賭けた西×東の戦いだからでもある。

 そんな阪神と道頓堀は、昭和の後半に入って関西人の心の中でつながることになる。 
 1985年、阪神タイガースは、バース・掛布・岡田を中心とした強力打線で21年ぶりのリーグ優勝と日本一を達成する。このとき、大阪の街は、東京が色あせるほどの活気を見せた。
 その象徴として道頓堀川が表舞台に現れる。熱狂した阪神ファンが次々に道頓堀川に飛び込んだのだ。数十人に上ったと言われている。
 それ以来、道頓堀川は、阪神タイガースが好成績を出す度に阪神ファンが飛び込む川として有名になった。
 そして、歴史は、道頓堀川を関西の象徴で終わらせることはなかった。

 2002年、歴史的なイベントとなった日韓共催サッカーW杯が行われた。2度目のW杯出場となった日本は、初戦のベルギー戦で引き分けた後、ロシア戦で念願だったW杯初勝利を挙げる。歴史的な出来事だった。
 長年、W杯にすら出場できなかったサッカー途上国がついに強豪ロシアを相手に、1−0で勝ったのだ。しかも、貴重な一点を挙げたのが、大阪出身の稲本潤一である。
 当然、大阪は沸いた。
 道頓堀川には阪神の優勝時をはるかにしのぐ人々が道頓堀川に飛び込んだ。
 続いて大阪で行われた3試合目のチュニジア戦では、大阪のチームに所属する森島隆寛が決勝点を決めて、また道頓堀川の水面を賑わした。日本代表の中で、大阪の選手達が想像以上の活躍を見せる。関西人の誇りを刺激したのは言うまでもないだろう。
 大阪府警の統計によると、このW杯中に道頓堀川に飛び込んだ人々は、2000人を超えたという。
 道頓堀川は日本代表快進撃の象徴として、世界中のメディアに紹介された。暗い歴史を経て道頓堀川は日本人を世界にアピールする舞台になった。
 海外から訪れたメディア関係者の一人は道頓堀川を取材してこうつぶやいたという。
「日本人がこんなにW杯に熱狂するとは思いもしなかった」と。
  外国人から見た日本人は、真面目に仕事ばかりしているおとなしい人間というイメージを持つらしい。
 確かに今までの日本人は、終身雇用で塗り固められた会社でただ働き続け、家庭生活や恋愛に至るまで会社の枠組の中で制限されがちだった。外国人にとって、それが自由のない社会と映るのだ。
 それなのに、外国人は、一度スタジアムへ行ってサッカーや野球、陸上や格闘技などの試合を観戦すると、日本人の中にある新たな一面を発見して驚く。日常から解放された別世界の日本がそこにあるからである。
 今回の道頓堀川のニュースは、日本人がスタジアムの外でさえ一つのスポーツに我を忘れて自由になれることを世界に知れ渡らせた。
 一時の熱狂が終わり、道頓堀川は、また平穏を取り戻している。だが、また遠からず歴史の表舞台に立つ日が来るだろう。道頓堀川は、これからも日本人にとって日常の鬱屈した感情のはけ口になってくれるに違いない。


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