常勝軍団中日の変貌
〜高木政権になった中日から見えてくるもの〜


犬山 翔太
 
 1.落合退任後の中日ドラゴンズ

 2011年の落合監督退任発表、大量のコーチ解任、それをものともせずリーグ優勝という衝撃から、2年が経とうとしている。
 2012年から監督になった高木守道は、中日から観客動員を増やすことを託された監督である。
 落合は、勝利にこだわり、投手を中心とした守りの野球を8年間一貫して実践し、4度のリーグ優勝と5度の日本シリーズ進出を果たした。その落合野球を引き継いだまま、高木は、「落合野球プラス1」を掲げた。そのプラス1は、2011年に貧打にあえいだ打線の強化だった。
 そして、スローガンは、「Join us ファンと共に」である。打線を強化して観客を呼べるようにしたい、という中日フロントの願望に応えなければならない使命があった。

 そのため、高木監督は、投手陣を犠牲にして得点にこだわった。2012年の開幕当初から中継ぎ陣を酷使し、野手陣を頻繁に途中交代して積極的な攻撃をしかけ、何とか前年並の成績を残して2位になった。しかし、翌年以降に残る過度な疲労を全く考えず、常に目先の1勝にこだわり続けて2位になったということは、翌年以降があまりにも不安になる結果だった。
 投手陣の管理を任されていた権藤博は、投手陣を犠牲にして序盤から代打をつぎ込む攻撃的采配に度々異論を唱え、それが元で高木監督と衝突して1年で投手コーチを退任することになった。

 2013年になると、前年のつけが出て投手陣、野手陣ともに前年の疲労を抱えたまま、調子が上がらずにいる。オフの間に、タニマチやファンのために、シーズンの疲れを癒せなかった影響と、キャンプでの練習不足、オープン戦での調整不足も、低迷の要因として存在する。
 シーズン序盤から早い回で交代する先発投手陣、勝ち試合・負け試合に関係なく酷使される中継ぎ陣。前年から続く故障者の続出には歯止めがかからない。そして、早い回から代打攻勢を仕掛けて併殺打を量産し、試合終盤には控え野手陣が残っていない野手陣。さらに、勝ち試合の守備を任せられる野手の不在。
 落合が監督時に築き上げたものが徐々に崩れていく様子をファンは、懐疑の目で見続けている。増えた負け試合の後には、ヤフーのコメント欄には中日への批判的なコメントが大量に書き込まれ、ナゴヤドームの観客も、目に見えて減少している。
 結局、2013年の中日は、12年ぶりのBクラスに沈み、45年ぶりにセリーグ全5球団に負け越しという苦い結果に終わった。

 現在の中日が抱えている問題は、上手く行っていたものを変えよう、そして、もっと欲張って二兎を追おう、とした戦略の顛末である。なぜ、このような事態を生んでしまったかは、2011年からの流れの中で分析していかなければならない。


 2.落合政権と高木政権の比較

 落合政権の野球から見えてくるのは、投手を中心とした守りの野球を実践するため、常に投手陣と野手陣に余裕を持って戦っていた慎重さである。
 投手コーチの森繁和は、先発ローテーションを任せられる投手を実際に必要な人数の倍ほど準備していたという。つまり、週の6連戦を6人のローテーションで回すとすると、その倍となる12人を準備したのである。そのため、中日は、1人や2人の投手が故障したところで、その穴を埋める投手によって大きく成績が下降することがなかった。
 たとえば、2011年にはネルソン、吉見、チェン、中田、川井、山井、山内、ソト、伊藤、岩田、小笠原、朝倉を先発として起用してきた。この年は、先発投手陣の精神的支柱とも言える山本昌が故障によって1試合も登板することができなかったのだが、それでも、ネルソン、吉見、チェンを中心としたローテーションに隙はなく、1人が離脱してもほぼ同等の実力を持つ別の投手でカバーし、安定感抜群の防御率をたたき出したのである。

 この年、中日の先発投手は、優勝を決めた142試合までのうち、5回を投げ切らずにマウンドを降りたケースは、たったの20試合しかない。
 逆に先発が7回以上を投げた試合は、過半数の75試合にのぼる。前半戦は、借金生活に陥った中日だが、苦しい状況にもかかわらず、先発投手陣は、まずまずの安定感を見せ、後半戦に備えて、リリーフ陣を無駄に起用せず、先発投手に長いイニングを任せることを最優先させてきた状況がうかがえる。
 もちろん、キャンプや練習で培った体力や技術も見過ごすことはできないが、それに匹敵するほど、後半戦を見据えた前半戦起用が後半戦の圧倒的な強さを生み出していたのである。

 年 先発5回未満 
(割合)
 先発7回以上
(割合)
試合数(消化試合除く) 
 2011  20試合
(14%)
 75試合
(53%)
 142試合
 2012  28試合
(21%)
 58試合
(43%)
 134試合
 2013  32試合
(24%)
 35試合
(26%)
 135試合

 しかし、2012年には、巨人の優勝が決まった134試合目までの間に、投手が5回を投げ切らずにマウンドを降りたのが28試合、そして、先発が7回以上投げた試合は58試合にとどまる。いずれの数字も、2011年より悪化し、中継ぎ陣に過度な負担がかかる状況を作り出してしまった。
 それでも、2012年に2011年と同様に勝ち星だけは重ねられたのは、それだけ2011年までに築き上げた投手陣の層が厚く、先発にもリリーフにも使える控え投手が数多くいたからである。それを2012年のうちに酷使して投手力を疲弊させる結果を招いたことは、2013年に投手力がさらに減退することを暗示しているとも言える。

 また、落合政権下で、森投手コーチは、勝ちパターンと負けパターンのリリーフ陣を巧みに分けて起用した。2011年で言えば、勝ちパターンでは概ね小林、鈴木、浅尾、岩瀬、負けパターンでは平井、三瀬、久本、武藤である。勝ちパターンにはまると圧倒的な投手陣で確実に勝ち星を手にし、負けパターンでも実績のあるリリーフ投手を長い回投げさせることで他の投手を使わない工夫を凝らし、彼らが抑えている間にあわよくば追いつき、追い越そう、という体制を築いたのである。大差での勝ちパターンでは、可能な限り先発を引っ張り、リリーフ陣を休ませてもいる。

 しかし、2012年は、開幕当初から大きな違和感を覚える起用が続いた。たとえば、3月31日の広島戦で9−0とリードした9回にセットアッパーの浅尾を登板させた。前年は、僅差のリードか同点で8回を任されていた浅尾がこのような場面で登板することはなかった。
 そして、その後も、浅尾は、負け試合に登板したり、本来は浅尾が投げるべき僅差でリードの8回にソーサや田島が投げるといった一貫性のない起用が続き、浅尾は、調子を崩した上に故障をしてしまう。

 また、落合は、守備におけるスーパーサブの存在を重視し、2011年で言えば、内野手としては岩崎達郎、堂上直倫、外野手としては英智、平田良介を試合終盤の守りの要として起用することが多かった。
 しかし、2012年の中日は、守備のスペシャリストである岩崎達郎と英智を使いこなすことができなかった。それは、得点を多くとって打ち勝てる野球を目指したがために、試合序盤で代打をつぎ込み、試合終盤には代打に出す野手が足りなくなっていたからだ。そうなると、代打に使える野手を増やし、勝ち試合の終盤で守備固めに起用したい岩崎と英智をベンチから外すしかなくなる。
 結局、英智は、2012年限りで現役を引退し、岩崎は、楽天に移籍することになってしまった。2013年は、ますます守備力が落ちた状態で試合終盤をしのがなければならない事態になってしまったのである。

 攻撃面においても、落合政権では、「打線は水物」との格言どおり、打者に過度な期待をかけなかった。そのため、ノーアウトか1アウトで単打が出ると、多くの場合、バントという作戦を選択した。走者1塁からは、本塁打が出ない限り打者1人で得点できる可能性が低く、打者2人で決めるとしても約2割5分×約2割5分の確率で出る連打に期待をかけなくてはならなくなる。それよりは約8〜9割で決まるバント×約2割5分の安打にかける選択を行ったのである。
 これにより、落合政権下では、大量得点をして圧勝する試合は少なくなったが、僅差を確実に勝利する試合が増えた。逆に言えば、派手な打ち合いを演じる大味な試合が減った半面、勝てそうな試合を確実に勝つことによって高い勝率を維持できるようになったのである。

 しかし、高木政権は、プラス1点を取りに行くため、犠打が減った。2011年に164あったのが、2012年は120に減少している。
 打率は、2011年の.228から.245に大きく上がったにもかかわらず、得点は、419点から423点に微増したのみである。2012年は、幸いにして前年不振に陥った森野、和田、井端が不振を脱出する兆しを見せたため、チーム打率が上がり、何とか前年以上の得点をたたき出すことができたものの、打率が上がったわりに、得点の取り方は、下手になってしまったと言い換えることもできる。

 年  打率  本塁打数  得点 1試合あたり
の得点 
 犠打数 1試合あたり
の犠打数 
 2011  .228  82  419  2.91  164  1.14
 2012  .245  70  423  2.94  120  0.83
 2013  .245  111  526  3.65  98  0.68

 2012年に高木が多用したランナー1塁からの強攻策は、決まったときの印象が鮮やかで強く残るため、あたかも得点力が上がったかのような印象があるが、実際には得点効率が落ちていたのである。とはいえ、2012年は、主力打者の調子が上昇したため、落ちた得点効率が目立たず、2011年並みの成績に落ちつけたわけである。
 2013年は、統一球が飛ぶようになったため、本塁打をはじめとする長打が増えて得点力は上がっているものの、各球団が全体的に上がっているため、ほとんど効果はない。犠打数は、前年以上に減っているため、勝てないことへの焦りから、やみくもに連打を狙いに行く状況が見て取れる。もはや、緻密な戦略が崩れてしまっているのである。


 3.2012年のツケが出る2013年

「2012年は大丈夫。2013年は首脳陣次第」
 落合は、自らが退任後の中日について、このように展望を語っている。
 鍛え上げて連覇したチーム力が2012年は、どんなに下手なことをしても、何とか持続させることができる。しかし、2年目にもなると、そう簡単にはいかず、首脳陣の力量が問われることになるのだ。

 我々は、監督1年目にリーグ優勝を果たしたものの、その翌年からはめっきり優勝できなくなったという例を何度も見てきたことがある。
 新監督は、球団の戦力を把握する前に、先のことを考えずに1試合1試合に全力を注いで勝ちに行こうとすることが多い。すぐに結果を出さないと、解任されてしまうかもしれない、という焦りがそうさせるのだ。
 安定した強さを誇ってきた西武でさえ、2004年に伊東勤が監督になってリーグ優勝を果たした翌年には借金2で3位に転落している。また、2008年に渡辺久信が監督になって1位になった翌年には貯金0で4位に転落している。
 2012年に中日の投手コーチを務めた権藤博も、横浜の監督就任1年目の1998年に貯金23を作ってリーグ優勝したものの、翌年には貯金を7に減らして3位、その翌年には貯金3で3位と徐々に成績を落としている。

 最近で言えば、2011年にヤクルト新監督の小川淳司がシーズン終盤に行った明日なき戦いが記憶に新しいが、ヤクルトは、その年、僅差で優勝を逃して2位になった翌年以降、徐々に成績を落としてしまう結果を招いている。
 2012年にリーグ優勝を果たした日本ハムも、2012年から2013年への流れを見る限り、中日と同様の状況が起きている。日本ハムも、2012年に栗山英樹新監督が就任し、積極的な采配でリーグ優勝を果たしたものの、翌年にはその疲労が顕著なのである。
 こうした状況を見てみると、新監督が選手を酷使してしまうと、1年目は、好成績を残せても、2年目以降に好成績を残すことが極めて困難になってしまう。ファンの間では、俗に「前監督の遺産を食いつぶした」と言われるのだが、1シーズンのためだけに長期的な視野を欠いた戦いをした場合、翌年以降の成績が悲惨なものになる。
 中日にとっては、2012年の影響をまともに受ける形で、2013年は、苦戦を強いられている。安定して勝ち続ける常勝チームを作り上げることは困難だが、常勝チームを弱体化させることは簡単なのである。

 それを防ぎ続けてこられたのは、巨人のみである。巨人は、1990年代以降、ピークを迎えたスター選手を大量に集め、その1年間だけは圧倒的な強さを誇示する、というスタイルで多くの優勝を積み重ねてきた球団である。脂の乗り切った名選手をこれでもかと揃えて独走優勝し、その戦力が衰えて弱体化が見え始めたら、また名選手を大量に補強して優勝を勝ち取る。その繰り返しで、巨人は、常に常勝チームであり続ける。
 つまり、監督やコーチの力量にほとんど左右されない球団運営を行っているのである。

 しかし、巨人以外の球団は、贅沢に選手を集めることが叶わないため、監督やコーチに先を見通した選手起用、育成がないと、すぐにチームが弱体化してしまうことになる。
 中日は、2011年オフに監督、コーチ陣、トレーナー、そして、スコアラーといったチーム編成の核となる人々を一掃する人事を行っただけに、今後の立て直しには時間がかかるはずである。練習の強化、選手の体調管理と見極め、投手陣の再整備と一貫した起用法、相手チームの綿密な研究、守備力の強化、犠打や走塁の重視など、見えてくる課題は多い。
 こうして、2003年以前には見えなかったものが見えてくるのも、落合政権8年間の成果である。






(2013年6月作成・10月加筆)

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