新たなる貿易摩擦  〜日米間の契約問題〜

山犬
 
  1.2つの日米摩擦

 僕たちは、全く畑違いの環境に放り込まれ、大きな壁にぶち当たったとき、こうつぶやいてみたりする。
 「遠い異国の地に一人で足を踏み入れたようなものだ」
 国境を越える、ということは、国際化が進んだ現在でさえ、まだまだ不安と困難が付きまとう。
 プロ野球の野茂英雄、サッカーの三浦知良らから始まった日本人選手の海外移籍増加。芸術や商業の分野においても同じような傾向はどんどん強まっている。けれど、すべてがうまく行くわけではない。現に海外で華々しい実績を残すことができずに帰国して来た日本人選手も多くいる。
 逆に鳴り物入りで来日しながら芳しい結果を出せず、寂しく帰国して行った外国人選手は枚挙に暇がないほどだ。
 そして、去年から今年にかけて、プロ野球界ではちょっとした日米摩擦の側面が急にクローズアップされてきた。
 それは、契約時点において日米両国の間で食い違いを生んでしまったことである。
 一人は、近鉄からメッツへの移籍が決まりつつあった中村紀洋、もう一人は、マーリンズから中日への移籍が決まっていたケビン・ミラーである。


  2.契約直前でこじれた中村の大リーグ挑戦

 中村紀洋は、近鉄の主砲で、2002年のシーズンは打率.294、42本塁打、115打点を残している。タイトルこそなかったが、パリーグを代表するスラッガーであることは間違いない。
 セ・リーグでは、巨人の主砲、松井秀喜がヤンキース入りを決めている。彼も、セリーグを代表するスラッガーである。
 松井に続いて中村も大リーグへ。
 そうなることを疑っている者はほとんどいなかった。誰しも大リーグへの期待と日本プロ野球への不安を抱えて成り行きを見守った。
 中村は、当初、日本での交渉を優先する。近鉄、阪神、巨人が獲得に名乗りを挙げた。中村は、一旦、国内でやることになった場合の球団を近鉄か阪神に絞る。それから大リーグのメッツとの交渉を行った。
 当初の交渉は順調そのものだった。メッツは中村を必要とし、中村もそれを意気に感じての相思相愛が伝えられた。

 しかし、契約直前で交渉はこじれる。
 メッツ側は、中村の健康診断が終わると、公式ホームページで「中村がメッツに入団することで合意に達した」と報じた。これに対して、中村は「メッツが守秘義務を怠って勝手に情報を流した」と不信感を訴えたのである。
 このとき、中村とメッツの間ではまだ正式契約が交わされていなかった。中村は、急遽メッツとの契約を断念し、近鉄残留を決断する。
 大リーグでは選手が健康診断を受けてパスすれば、入団に合意した、ととらえるのが慣例となっている。メッツは、大リーグの慣例に従って公式ホームページでファンに情報を流し、中村は、それを情報漏えいととらえたわけである。メッツは、日本人の大リーグへの憧れを過信して中村が入団するものと思い込んでしまい、中村は、慣れない大リーグ式の慣例に戸惑ってメッツを信じられなくなった。双方の勇み足である。
 ちょっとした意識のずれで起こった行き違いは、日米間にとって不幸な事態を招いた。


  3.かつての日本人・大リーグ球団間のトラブル

 野茂を先駆者として急増してきた日本人の大リーグ挑戦の歴史はまだ浅く、それほど多くの日本人大リーガーが誕生しているわけではない。
「日本人選手とアメリカ大リーグの間で交渉がこじれたのは、さすがに中村が初めてだろう?」
 僕たちは、ついそう思ってしまいがちだが、実は先例がある。
 それは、1964年までさかのぼる。日本人初の大リーガー、村上雅則をめぐってである。
 まだ1軍では活躍していないプロ2年目の村上は、南海から大リーグの1Aチームへ野球留学させてもらう。村上は、その1Aチームで好投を続け、異例の大リーグ昇格を果たす。その年にSFジャイアンツで早くも大リーグ初勝利を挙げてしまった村上は、帰国後、契約問題に巻き込まれる。
 南海とSFジャイアンツは、南海から選手を留学させるとき、「もし大リーグ昇格できる選手がいたならSFジャイアンツと1万ドルで契約できる」という旨の条項を交わしていた。そのため、SFジャイアンツは1965年に村上と契約するために南海へ1万ドルを送ってきたのである。
 もちろん、留学させる前の南海は、村上が大リーグ昇格することなど夢にも思っていない。けれども、ここにきて村上を手放すのが惜しくなった南海は、無理やり村上を説得して、南海との契約を結ばせてしまう。
 このことは、SFジャイアンツ側にとっては明らかな契約違反だった。ところが、南海は、留学時に交わした条項を紙切れ同然に扱って、効力を認めなかったのである。
 半年近くもめた末に最後は、村上を1年間だけ大リーグでプレーさせる、という日本的妥協案で決着する。この騒動は、今考えれば、後の時代に日本人選手がアメリカ大リーグと契約するとき、よく起こりうる日米間の意識のずれを暗示していたといえよう。


 4.中日と契約しながらレッドソックス入りを希望したミラー

 このような契約に関する不幸な事態は、頻繁に外国人選手と日本球団との間で見られている。契約しておきながらなかなか来日しなかったり、来日してもシーズン途中で帰国して戻ってこなかったり、日本球団が一方的に契約を打ち切ったり、というやつである。
 
 中村の契約問題に続いて起こったミラーの契約問題は、さらに大きな波紋を呼んだ。
 ミラーは、マーリンズのクリーンアップに座るバッターだった。2002年のシーズンは、打率.306、16本塁打、57打点を残している。
 年齢は31歳。野球選手として最も脂の乗っている時期である。さらなる飛躍を誓ってミラーはFA宣言をする。
 ところが、アメリカ大リーグは、ぜいたく税の影響で経営が苦しくなる球団が増えていた。ぜいたく税とは、2002年から新たに導入することになった課徴金制度である。大リーグの球団で選手の総年俸が約140億円を超える球団は、超えた額分の17.5%を徴収されるというものだ。既に多くの球団が赤字経営に転落している現状の中で、課徴金制度の導入は選手にとって酷だった。
 2002年のシーズンオフは、トレードやFAでの大幅補強に踏み切る球団が目に見えて減った。本当に必要と思う選手だけを獲得しよう、という堅実な球団ばかりになったのだ。
 ミラーは、その被害者になった。FA宣言するタイミングがあまりにも悪かったわけだ。
 2002年が終わりを告げようとしても、大リーグチームからミラーにはオファーがない。このままでは格安でマーリンズと残留契約せざるを得なくなったり、下手したら働き場を失って一年を棒に振る可能性も出てくる。
 ミラー側にあせりの出てきたところへオファーを起こしたのが中日だった。
 中日は、2002年の夏場から4番のゴメスが故障で抜け、苦しい戦いを強いられた。かといって、日本人で4番を任せられるほどのスラッガーはまだいない。
 契約が宙に浮いている現役大リーガーのミラーは、中日にとって渡りに船だった。ミラーは、外国人としては中日の球団史上最高の年俸約3億7千万円で2年契約を結ぶ。ミラーも、日本での活躍を誓い、すべてがうまく行くかに見えた。


 5.現役大リーガーの避難場所、日本

 移籍する大リーグ球団がなくて日本へ行こうとしたミラーのような事例は、しばしば見られる。その代表的な例がボブ・ホーナーとバンス・ローだろう。
 1987年、ヤクルトに入団して日本中を赤鬼フィーバーに巻き込んだボブ・ホーナーは、アメリカ大リーグのブレーブスで活躍するスターであり、29歳という働き盛りの年齢でもあった。1986年には大リーグで打率.273、27本塁打、73打点という成績を残し、既に大リーグで通算215本塁打を記録していた。
 そのホーナーがFA制度を利用して高い年俸での契約を望んだとき、選手の獲得を控える動きに出ていた大リーグの各球団は手を挙げようとしなかった。FA制度のせいでメジャーリーガーの平均年俸が10年で10倍になるという現象が起き、大リーグ26球団中18球団が赤字経営になるという深刻な危機が訪れていたからである。
 ホーナーは、仕方なく3億円近い年俸でオファーをしてきた日本のヤクルトと1年契約を結んで来日する。しかし、ホーナーは、90試合出場で打率.327、31本塁打を残したものの、ヤクルトとは翌年の契約を結ばず、ヤクルトよりはるかに低い年俸を提示してきた大リーグのカージナルスと契約してアメリカに戻ったのである。

 1990年には大リーグのストライキのせいで、プレーを望んだバンス・ローという大リーガーが中日と1年契約を結んで日本でプレーしている。バンス・ローは、既に大リーグで10年間活躍している選手で、1年間だけ日本でプレーしたら再び大リーグへ戻る、ということを最初から決めていてその通りにした。打率.313、29本塁打を残し、中日からは残留要請があったものの耳を貸さなかったのである。
 彼ら2人は、1年という限定での来日だったが、ミラーは2年契約をしている。だから、中日には、最低でも2年間は日本でプレーしてくれる、という安心感があったと言っても過言ではない。
「今年は、いい外国人選手をとってくれましたから、必ず優勝します」
 これは、現に中日のあるレギュラー選手がインタビューで語っていた言葉である。

 かつて巨人でプレーしたウォーレン・クロマティも、1984年に来日したときは現役大リーガーだった。FA宣言して大リーグでの移籍を望んでいたものの、交渉相手のSFジャイアンツが年俸を低く見積もってきたため契約せず、日本の巨人と契約を結んだ。大リーグ9年間で通算打率.280、61本塁打を記録する優れた中距離ヒッターだったクロマティは、日本でのホーナーの活躍を見てこのようなことを言っている。
「ホーナーのおかげで、日本は大リーグのフリー・エージェントたちの新しい大きな市場になるだろうね。オレが来日したきっかけだって、サンフランシスコ・ジャイアンツが納得できるような年俸を払おうとしなかったからさ。その点、読売ジャイアンツはオレの力に見合う年俸を提示して、ぜひ欲しいと言ってくれた。だから来たんだよ」(『助っ人列伝』文芸春秋編 文春文庫ビジュアル版 1987)
 アメリカ人は、日本人より遥かに合理的な考え方をする、と言われている。チームのため、ファンのために野球をする、という発言をする以前に、家族との生活のため、それに必要なお金のために仕事をしている、という意識を強く持っている。
 だから、ミラーは、最も高く評価してくれている中日に来る、というのがごく一般的な考え方だったのだ。
 

 6.年俸よりも家族・大リーグを選んだミラー

 しかし、ミラーは、来日すらしなかった。
 それまで獲得の動きを見せていなかったレッドソックスが触手を伸ばしてきたのだ。レッドソックスは、獲得を狙った松井秀喜外野手、ホセ・コントレラス投手、バルトロ・コローン投手という大物選手をことごとく他球団に獲られ、オフになってから全くと言っていいほど補強できていなかった。
 大リーグ球団は、日本球団が契約した選手に対しては手を出さない、という紳士協定があったが、レッドソックスのチーム事情はそういう余裕すらなかったようである。
 元々、大リーグでの移籍を希望していたミラーの心は動いた。
 そこへ来て、アメリカがイラクと戦争を始める、という社会情勢からミラーの父が息子の日本行きに反対していたことも明らかになってきた。アメリカ人は、仕事より家族を優先することで知られている。ミラーの心は、ますます動く。
 そうなると、ミラーが来日する理由は高い年俸だけになった。そして、ミラーが日本での年俸よりも家族と大リーグを選んだことで、来日は事実上消滅してしまったわけである。
 その後、個人の権利拡大に熱心な大リーグ選手会が「中日がミラーとの契約を解除しなければ、日本で予定している大リーグの開幕2連戦を取りやめる」という脅しを日本にかけてきたこともあって、ミラーは中日を自由契約になってのレッドソックス入りが決まった。
 ミラーの契約問題は、アメリカ大リーグの球団経営事情、日米の家族観の違い、緊迫した世界情勢、といった複雑な要素がからみ合って、本来は契約がすべての決定となるはずが、そうならなくなってしまった。


 7.対処できるルールを

 中村も、ミラーも、国境を越えての交渉のおかげで、ちょっとした意識のずれから思わぬ方向に展開して行き、最悪の結末を迎えた。
 年々、日本人大リーガーが増え、来日する外国人選手も増えている。国境は、どんどん低くなっていく。でも、今のままでは、それと反比例するようにトラブルは増えていくだろう。もし、次々に噴出してくるトラブルを放置しておけば、かつてよく言われた外交の貿易摩擦を再現する羽目になるに違いない。
 それを最小限に食い止めるには、これまで起こってきた問題の一つ一つに対するルール付けが求められるだろう。これは、急いでほしい。
 国と国を隔てて人々がぎくしゃくし合い、もめている姿を僕たちはもう見飽きているのだ。


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