2014年9月のコラム

犬山 翔太
 
2014年09月27日

 @ウエスタンリーグから見える中日の苦悩

2011年 65勝33敗10分 1位
2012年 44勝54敗9分 5位(最下位)
2013年 37勝61敗9分 5位(最下位) 
2014年 34勝63敗5分 5位(最下位)2014/9/26現在

これが何の成績か。中日ファンであれば、すぐに察しが付くだろう。
ウエスタンリーグの中日の成績である。
2011年は、1軍が落合博満監督の下、セリーグ優勝を飾っているうえに、2軍でも井上一樹監督の下、ウリーグ優勝を飾っている。1軍の選手が充実し、2軍の若手も力をつけてきている。
そんな、すべてが順風だった中、中日は、新しい風を入れると称して、指導体制を入れ替えた。

そして、1軍は、高木守道監督の下、2012年から2位、4位と沈没していき、2軍は、鈴木孝政監督の下、2年連続最下位になった。
常勝がマンネリとなった中、その常勝の要因を分析せず、安易に体制を入れ替えて常勝を維持できると踏んだフロントによる悲劇だった。

2014年は、沈没したチームを浮上させるべく、1軍に落合GMと谷繁元信監督、2軍に佐伯貴弘監督の体制で立て直しを図ることになった。しかし、2年間で崩壊したチームを浮上させるのは、同じように2年間、もしくは、その倍の期間がかかるのではないかと思わせるほど、悲惨な状態であることが明らかになった。

1軍は、7月まで立ち直りの気配を見せたものの、8月には選手層の薄さを露呈して持ちこたえられなくなり、Aクラス入りを逃した。そして、2軍も、立て直しができないまま現在に至っている。

体制を変えて、短期間のキャンプで立て直しを図るのは、そもそも不可能に近いことだったのだ。2012年に落合体制の遺産によって高木体制で2位になれたように、2014年は高木体制の遺産によりAクラス入りを逃した。
結果は、残酷なほど、分かりやすい。

そうなると、真価が問われるのは、2年目、3年目となる2015年、2016年である。2軍の若手選手陣が悲惨な状況である以上、この年のオフには多くの選手を入れ替えて、有望な選手を充実させることになるだろう。
2015年には、中日の本来の形である投手を中心とした守りの野球を見たいところではあるが、この崩壊した状態を立て直すには、どれだけの時間がかかるのか、なかなか予測がつかないのも実情である。
今は、落合GMと谷繁監督、森ヘッドコーチの手腕に期待するしかない。



2014年09月14日

 A潮崎哲也の現役成績には再評価が必要

西武は、来季から潮崎哲也を監督に据えるそうだ。
まだ45歳ということにも驚いたが、それは、山本昌が49歳で先発しているため、私の感覚が麻痺してしまっているのだろう。

1990年代の西武は強かった。その強さを支えていた1人が潮崎だった。
1990年代前半で最高のリリーフ投手は誰か、と尋ねられれば、まず潮崎哲也を挙げる。
なのに、通算成績は、82勝55セーブといずれも100に届いていない。なぜかと問われれば、山口鉄也がいまだ50勝にも50セーブにも到達していないことを考えれば分かりやすい。

潮崎の現役生活前半は、主にセットアッパーとしての活躍だったからだ。
当時はまだ、ホールドという制度がなく、セットアッパーとも呼ばれず、中継ぎと呼ばれていた。
そして、中継ぎの評価は著しく低かった。評価されるのは、先発と抑えだけで、中継ぎは、単なるつなぎの投手、もしくは敗戦処理の投手という評価が一般的だった。
それを成績で覆したのが潮崎哲也だった。1990年から1996年までの間、中継ぎが主でありながら投球回が100回を超えた年が2回あり、防御率1点台が3回もある。
当時の日本シリーズでセリーグの優勝チームが西武になかなか勝てずに苦労したのは、潮崎の宝刀シンカーに牛耳られ、反撃の芽を絶たれたからでもあった。

潮崎が残してきたすさまじい成績は、通算成績で語り尽くすことが不可能である。多くの名投手は、勝利数や奪三振数、セーブ数で評価されるが、潮崎や山口鉄也はそこを評価基準にできない投手なのである。
潮崎が残してきた成績のすさまじさを語るためには、ホールドがなかった時代の成績を洗い直し、どれだけのホールドを挙げていたかを再計算すべきだろう。

潮崎は、現役時代の前半を主にセットアッパーとして過ごし、後半を先発として過ごしてきた。
そのため、勝利数もセーブ数も100には届かなかったが、仮に先発一本でやっていれば100勝は超えていたであろうし、抑え一本でやっていれば、100セーブを遥かに超える成績を残していたはずである。


2014年09月05日

 B見習うべき山本昌投手の試合を作れる粘り強さ

野球の試合は、ほぼ先発投手で決まる。
そんな言葉を思い浮かべた試合だった。
山本昌投手が阪神戦に先発登板して最年長勝利を記録したからだ。

山本昌投手のプロ野球選手生活は長い。
デビューした1984年は、ちょうど私がプロ野球を見るようになった年なので、私のイメージはプロ野球=山本昌投手と言っても過言ではない。
とは言っても山本昌投手は、下積み時代が長いので私が山本昌投手を知ったのは、1988年の後半に彗星のごとく現れて、5勝0敗、防御率0.55というすさまじい成績でリーグ優勝に貢献してからである。

その後、1990年代には3度の最多勝を獲得するエースとなったが、2000年代に入っても山本昌は依然としてエース級の活躍を見せてくれた。
2007年と2009年にはもうそろそろ限界か、ともささやかれていたが、粘り強く翌年には盛り返してくれた。周りが駄目かと思っても、本人がそれを覆していく粘り強さにはいつも驚かされる。今年も、2軍で負けが込み、もう1回も1軍へ上がらないのかとさえ思っていたが、気持ちを切らすことなく、この時期になって調子を上げてきた。

2009年からはさすがに2桁勝利から遠ざかってはいるが、それでも好調なときは、全盛期に近いピッチングを見せてくれる。
まさに勝ち方を知っている投手なのである。

リーグ優勝するためには、先発投手陣が1年を通じて安定している必要がある。先発投手陣が踏ん張って点を与えなければ、試合に勝つ確率は格段に上がる。山本昌は、これまで5回の優勝に貢献してきているが、いずれの年も、きっちり勝ち星の貯金を稼いでいる。

一方、今年の中日は、貯金を稼げる先発投手が山井1人しかいなかった。そのため、山井が勝てなくなると、先発投手陣が総崩れになって連敗をしてしまうことになり、8月は、最悪のチーム状況になった。

先発投手に必要なのは、貯金を作れる安定感である。中日が直面しているのは、中盤まで同点や勝っている状態で中継ぎにバトンを渡せる粘り強い先発投手を育成できるかどうかだ。
立ち上がりの安定感に定評のある山本昌投手が現役でいるうちに、若手の投手は、山本昌投手の粘り強さを学んで、安定して活躍できる先発投手となっていってほしいものである。




(2014年10月作成)

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