2001年10月、長嶋監督が勇退し、斎藤雅樹投手・槙原寛己投手・村田真一捕手が現役を引退しました。
 彼ら4人から僕が思い出すのは、まず1994年10月8日の巨人中日最終戦です。あの試合を僕はどうしても、ここで描いておきたいという衝動にかられました。
 あの試合は、僕にとっても特別な思い入れがあります。
 長嶋監督と選手3人の全盛期の姿をぜひ思い出してお読みください。


長嶋茂雄と落合博満 〜君は見たか、伝説の10.8を〜
                     山犬
 1994年10月8日。その日は、プロ野球ファンにとって永遠に忘れることができない日となった。
 ナゴヤ球場では中日×巨人最終戦が行われることになっていた。
 巨人と中日は、10月6日までに129試合を終えて、共に69勝60敗で首位。
 つまり、この130試合目に勝った方がペナントを手にするのだ。
 前日からどこもかしこも、その話題でもちきりだった。
 どちらが勝ってもこの試合で優勝が決まる。僕がプロ野球のペナントレースでそんな試合を見るのはもちろん初めてである。
 その日になるまでのプロセスが既に伝説の舞台を作り上げていたのだ。
 最終試合の直接対決で優勝決定となる試合は、それ以前に一度しかない。1973年の阪神×巨人戦である。そのときは阪神が0.5ゲーム差でリードした状況だったが、10月22日の直接対決で巨人が9−0で圧勝し、逆転優勝を決めた。
 長嶋茂雄は、このとき37歳。巨人の主砲だった。
 そして、この年の優勝こそが不滅の記録となっている巨人の九連覇達成の瞬間でもあった。
 長嶋は、翌年、巨人十連覇の夢破れ、現役を引退した。
 その長嶋が21年の時を越えて、1994年10月8日に巨人の監督として優勝決定の直接対決に臨んでいる。
 スーパースターには、どこまでも伝説となる巡り合わせが付いて回るのだろうか。

 10.8は、土曜日のナイターだった。多くのサラリーマンや学生にとっても、この上ない条件だったことは間違いない。
 僕は、その日、何となく落ち着かない休日を過ごしていたことを鮮明に覚えている。
 それは、一人の選手のファンだったからである。
 その選手の名は、落合博満。
 落合は、紛れもなく、1980年代最高の選手だった。ロッテで三冠王三回。中日に一人対四人のトレードで移籍して1990年には二冠王も獲得した。
 中日移籍直後、オープン戦に顔見せで出場させられたとき、落合は、バッターボックスで一回もスイングせず、全打席三振した。
 フォームが固まっていないときに試合でスイングすると、バッティングが崩れる。
 それが理由だった。そこまでこだわりを見せるプロ意識と、それを実行できる実力は誰も真似できるものではなかった。そこに感心した僕は、必然的に落合ファンになった。
 落合のあくまでプロフェッショナルとして野球に打ち込む姿勢は、彼を深く知らない人々からの誤解を生んだ。
 落合の言い分は、いつでも筋が通っていた。落合は、その説明を我々にすることなく、無言でプレーし、結果を残し続けた。
 そして、落合がFA(フリーエージェント)宣言して巨人入りしたときも、多くの誤解を生んだ。
「所詮は巨人が好きで、入りたかっただけ」
「金の亡者」
 そんな噂が巷を流れた。
 しかし、落合は、巨人が好きだったわけでも、金の亡者でもない。
 落合が巨人に入ったのは、野球人として長嶋茂雄を心から尊敬し、また長嶋茂雄が落合の技術を最も高く評価していたからだ。
 落合は、自らを最も高く評価してくれるチームで働くと断言して野球を続けてきた。そのため、生涯四球団を渡り歩くことになったが、1993年当時、落合を最も高く評価していたのは巨人の長嶋茂雄監督だった。結果として、それに破格の年俸と巨人というチームが結び付いてきただけのことである。
 そのことは、巨人在籍3年間で2度優勝させて役目を果たした落合があっさりと巨人から身を引いていることから明らかである。

 長嶋と落合の間を語るには、はるか1974年までさかのぼる必要がある。
 その年の10月14日、長嶋は後楽園球場の巨人×中日のダブルヘッダーを最後に現役を引退した。
 落合は、長嶋の引退試合を見るために会社を欠勤して後楽園球場に駆けつけている。
「世間では巨人・大鵬・卵焼きと言われていたが、俺にとっては長嶋・大鵬・卵焼きだった」
 そう落合が語っているように、落合は、長嶋とという人物に入れ込んでいた。長嶋が他の選手にはできない熱心さで打撃や守備の向上に努め、魅せることに執念を燃やしてきたことを知っていたからだ。
 もし落合がごく普通の会社員で終わっていれば、ただの一ファンとして伝説にすらならなかっただろう。
 だが、超人同士の縁は、そこで途切れることはなかった。
 4年後の1978年、引退後すぐに巨人の監督となった長嶋は、就任四年目を迎えていた。一方、落合も、社会人の東芝府中の主砲として頭角を現してきていた。
 だが、長嶋が指揮を執る巨人は、ドラフト前日の「空白の一日」を利用して、怪物投手江川卓と契約。これに対してプロ野球実行委員会は、無効と通告した。
 怒った巨人は、何とドラフト会議をボイコットするという暴挙に出る。つまり、巨人は、その年のドラフト会議で誰一人獲得しなかった。
 落合は、周知の通り、そのドラフトでロッテから3位指名され、プロ入りする。
 しかし、このときのドラフトで長嶋が落合をドラフト2位で指名する予定だったことを知る者は少ない。もし、後に巨人のエースとして君臨する江川という巨星が存在しなければ、長嶋と落合の運命は大きく変わっていたことは間違いない。
 さらに、実現には至らなかったが、1979年オフには巨人がロッテに落合のトレード話を持ち出してもいる。
 恐るべきことに、長嶋は、落合の素質をプロ入り前後の時点で既に見抜いていたのである。
 1980年、成績不調の責任をとって長嶋は、監督を解任され、落合との縁はそれきりになるかに見えた。

 だが、運命は、まだまだ巡る。
 1993年、長嶋が13年ぶりに巨人の監督に復帰したとき、落合は、ライバルチームの中日にいた。
 長嶋が指揮を振るった巨人は、リーグ最低打率という深刻な貧打に悩まされ、中日より下のリーグ3位でその年を終えた。
「やはり、長嶋は名選手だったが、監督としては無能だ」
 心ないマスコミは、一斉に長嶋を叩き始めた。
 長嶋は、第一期監督時代と同じように、最悪のチーム状態で監督を引き受け、苦闘を余儀なくされた。
 世間が言うように長嶋は、監督として無能なのか。僕は、ここで立ち止まって疑問を投げかけたい。
 長嶋は、1975年、9連覇が途切れたチームを引き受けたとき、9連覇の主力は抜け、衰え、という状況で、優勝を争えるチームではなかった。
 それでも、監督初年度に最下位になったのを教訓に、人工芝の特性を見極め、ON時代の豪快な野球から小刻みな野球への大規模な転換を図った。
 そして、1976年には前年最下位からのリーグ優勝、その翌年には二連覇を達成する。
 ここまで変革を行い、結果を出して、無能と言える者がいるだろうか。 
 確かに1980年は3位ながら衝撃的な解任という結果で第一期監督時代に幕を閉じている。
 世間には監督初年度の最下位と、最後の解任劇のインパクトがあまりにも強烈だった。人々は忘れっぽいから、あの二連覇を忘れ去り、解任された監督という結論だけが生き続けることになった。そして、あまりに輝かしすぎる選手時代の印象から、長嶋監督というものを過小評価しすぎる状況が生まれていったのである。

 1993年のオフに話を戻す。長嶋は、監督として窮地に立たされていた。
 巨人というチームは、創設以来、4年間以上優勝を逃し続けたことはない。
 1990年以来優勝のない巨人にとって、1994年は、その4年目にあたる。史上初の悪夢は目前に控えていた。
 また、常に公の場では暗い顔を見せない長嶋は、マスコミや巨人のOBにとってはおそらく最も攻撃しやすい存在になりつつあった。
 そんなとき、懸案だったFA(フリーエージェント)制度が施行されることになった。この年に施行になったことが後から考えれば、伝説へ続く命運を決めたことになる。
 その新しい制度が落合と長嶋をようやくにして、つなぎ合わせる役目を果たしたからである。
 落合は、選手会の無力さに責任を感じて脱退していたが、選手会が推し進めていたFA制度が施行となると、その制度を強化するためにFA宣言をした。
 落合は、このとき、他球団の条件が中日より低ければ、中日に残留することを示唆していた。
 しかし、長嶋は、四十歳という落合の年齢からくる数多くの反対を押し切り、中日をはるかに超える条件を提示し、落合を獲得する。
 あの1978年ドラフトから数えて15年もの歳月が流れていた。一度も切れることがなかった15年がけの両想いの恋は、ようやく実を結んだのである。
 孤立した中で周囲の反対を押し切ってまで落合を獲得した長嶋にとって、1994年は、野球人生最大の危機だった。
 もし、前年並みか、それ以下に沈めば、解任されることが明白だからである。
 それでも、長嶋は、落合の卓越した実力と、彼が巻き起こす波及効果に賭けた。落合を四番に据え、入団2年目の松井秀喜を、成長させるために三番へ固定した。
 その選択が10.8へと続いて行く。あたかも最初から10.8につながる道を歩いてきたかのように。

 10.8は、表面上でさえ伝説として輝いているが、それまでの道は決して平坦なものではなかった。
 巨人は、開幕から独走するが、落合は死球攻めに遭い、背中に受けた死球により、息をするのも困難な状態でプレーしていた。その影響で打率が低迷している落合への批判を長嶋は、すべてはね除け、4番落合を貫いた。これは、常にマスコミの批判、監督に近い権力を持つ数多くのOBの口出しにさらされる巨人の中で、自らのやり方をまっとうすることは極めて困難である。しかし、長嶋は、動じなかった。
 その強い意志は、夏場まで巨人が独走という好結果を生んだ。
 しかし、8月後半から、巨人はスランプに陥る。どんなチームにも投打が噛み合わなくなるスランプは一年のうちに何度かある。しかし、それが8月、9月に集中してしまった。
「8月・9月に負け越したチームは優勝できない」
 マスコミは、またもや不吉な格言を出してきて長嶋を叩いた。
 そして、10月には猛烈な追い上げを見せた中日に並ばれる。
 長嶋は、夏場の独走から、秋にかけてよもやの失速してしまったことに責任を感じ、もし10.8で敗れれば監督を辞任することを決めていたという。
 また、落合は、「長嶋監督を必ず胴上げする」と入団時に宣言したため、もし10.8で敗れれば現役を引退することを決めていたという。
 10.8の実情は、二人の超人が人生を賭けて闘っていたのである。
 長嶋は、この試合で投手陣を長年支えてきた3本柱全員を惜しみなく投入することを決めていた。
 珍しく、この日は、試合開始から全国にテレビ中継された。普段は、試合途中の午後7時頃からの中継なのだが。
 それほど、この試合は特別だった。僕は、試合開始の30分前からテレビの前に座った。
 先発のマウンドには、まず槙原寛己が立った。槙原は、この年の5月に完全試合を達成し、既に12勝していた。
 槙原は、1回裏を0点に抑えた。
 中日の高木守道監督は、エースの今中慎二を先発に立てていた。
 今中は、1回表を無難に抑え、2回表の先頭打者は、4番落合。
 僕は、この打席の落合に注目していた。ここでホームランを打つのではないかという予感は確かにあった。
 それまでのプロセスを知っている者は、こういうとき次に起こることのへ予感が結構当たるものだという。サッカーをよく知る者の多くは、2000年のシドニーオリンピックの日本×アメリカ戦でPK決着に持ち込まれたとき、外すのは中田英寿だという予感がしたという。
 オリックスの仰木彬監督も、2001年9月、近鉄の北川に代打逆転満塁サヨナラ優勝決定本塁打を浴びるとき、確かに打たれる予感がしたという。
 偶然のように起こる出来事も、意外と必然で起きているのかもしれない。
 落合は、今中の投げた3球目の外角からやや真ん中寄りに入ってきた直球を見極めるようにバットを少しだけ遅れ気味にバットの遠心力を最大限に生かして振り抜いた。落合にしかできないという高度な技術である。
 真芯で弾き返された打球は、右中間のスタンド中段へ突き刺さった。40歳とは思えない勢いのある完璧な打球だった。僕は、あれほど芸術的なホームランをいまだに見たことがない。
 試合後、読売の渡辺社長は「1億円ホームラン」と絶賛している。
 1本で1億円の価値を持っているホームランなど、現実には存在しない。だが、もしあの場面であのホームランを打ってくれる、と約束してくれたなら1億円出す人だっていたかもしれない。
 そんなホームランだった。
 巨人は勢いに乗って2点目を入れる。
 しかし、槙原は、雰囲気に飲まれるようにその裏2点を失って降板する。
 2人目のマウンドに立ったのは斎藤雅樹である。
 長嶋の予定通りだ。巨人の快進撃は斎藤の開幕戦完封から始まっていた。ここまで13勝を挙げている。
 斎藤は、いとも簡単に逆転のピンチを切り抜けた。
 追いつかれた巨人は、3回表、再び落合がランナーを二塁に置いて打席に立つ。インコースに食い込んでくる直球をライト前にしぶとく落とした。
 今度のヒットは気迫で運んだヒットだった。
 これが結果的に決勝点となった。
 落合は、3回裏、立浪和義選手のゴロを右に動いて処理しようとしたとき、左足の内転筋を痛める。普段では起こるはずがないような怪我だったが、さすがに落合にかかる多大な重圧は、落合の動きを硬くしていた。
 落合は、手当てをし、無理してグラウンドに戻ったが、歩くのがやっとで、もはやプレーできる状態ではなかった。
 落合は、その回限りでベンチに退いた。
 2打数2安打1本塁打2打点。そして勝利打点。
 巨人は、既に落合によって勢いを与えられていた。村田真一、コトー、松井秀喜に本塁打が出て、7回からは3本柱の最後を締める桑田真澄の登板。それらのすべては、長嶋監督が1年間を通じて主張し続けた落合効果そのものだった。
 桑田がそのまま抑えきり、6−3で巨人は優勝した。
 それは、長嶋の壮大なチーム改革が成功した瞬間でもあった。
 長嶋監督がグラウンドで宙に舞っているとき、落合は、ナインの輪の外で涙を流しながらその光景を眺めていた。落合がグラウンドで見せた最初で最後の涙だった。
 もしこの試合で敗れていたら、この後に続く日本一はおろか、1995年の落合2000本安打達成も、1996年のメイクドラマも、2001年の長嶋終身名誉監督就任もありえなかった。
 10.8は、平均で50%近い視聴率があり、プロ野球中継史上最高を記録したという。
 長いプロ野球史上でも、この試合は、他のどんな試合よりも異質な輝きをもって今後も語られることになるだろう。
 そして、二人の超人が重圧に耐えながら人生を賭けて壮絶に闘ったからこそ、生まれたことは疑えないだろう。
 我々野球ファンは、こういう試合にまたいつの日か出会うことをずっと夢見ている。だからこそ、その試合にたどり着くかもしれない一つ一つの試合を愛してやまないのかもしれない。

 


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